この社の前に通じる小道を行くと県道足立越谷線に出る。その県道の角の門構えの屋敷が蒲生村の名主の一人であった中野家である。中野家の始祖はその家譜によると中野左近と称し、豊臣秀吉に仕(つか)えていたが、天正十八年(一五九〇)秀吉に随って小田原北条氏の攻略戦に参加、次いで奥州征伐に向かったが途中瓦曾根の地で病いに倒れた。その後慶長二年(一五九七)蒲生の地に土着してこの地の開発に努めた。その子孫もよく家業を収め蒲生西組の名主を勤めるようになったとある。この家には宝暦十二年(一七六二)の蒲生村検地帳をはじめ数々の古文書が残されている。
この中野家から県道(元の日光新道)を東京よりへ少し行った所に現在鉄筋コンクリート造りのこじんまりした本堂に改造ざれた、中野家開基と伝える摩尼山地蔵院と称す真言宗寺院がある。その横の松の大木の下に元文二年(一七三七)の宝篋印塔と、格子戸造りの六角堂がある。この六角堂のなかには同じく元文二年の六地蔵が納められている。その先の生け垣囲いのなかは中野家の菩提所であり、中に慶安・明暦の板碑型墓石や寛文四年(一六六四)の宝篋印塔墓石、その他中野家歴代の墓石が収められてある。
また地蔵院本堂の裏手から横手にかけては墓地になっているが、ここにはあまり古そうな墓石はみあたらない。その他墓地の前の露地ぎわに、蓮台の上に地蔵の座像を戴いた享和二年(一八〇二)の供養塔が小屋囲いで立てられているが、なにかいわくありげな石塔にもみられる。