蒲生閻魔堂と光明院

208~210/222ページ

原本の該当ページを見る

 道を日光旧街道に戻り、右手に東京家具センター、左手に明治期県会議員などを勤めたこともある清村家の白壁の摒を見ながら進むと、右手の道端にトタン屋根囲いの石塔がみられる。正徳三年(一七一三)の笠付青面金剛庚申塔と、不動明王像を戴いた享保十三年(一七二八)の道しるべである。この道しるべの造塔者は江戸新乗物町の講中で、これには「是より大さがミ道」と不動尊への道しるべが刻まれている。

 この道しるべにある通りここから右手に通じる道は大相模不動に通じる古道である。この古道に沿って古くからの集落がつらなる。これを行くと曲り角に規模のやや大きな墓地がある。閻魔(えんま)堂と称された庵の跡である。なかに文政十年(一八二七)の六地蔵や宝永二年(一七〇五)の地蔵尊念仏などとある供養塔がある。また年代不詳のものをはじめ寛永二年(一六二五)、同十年、正保三年(一六四六)の宝篋印塔墓石などもみられ、古くからの墓地であることが知れる。このほか〝西方の弥陀の都に来て見れば 浄土のはるぞ思ふうれしき〟との辞世とみられる歌が刻まれた墓石などもみられる。

 この閻魔堂から少し行った所に瓦葺のやや大きな寺院がある。弘治二年(一五五六)の開山を伝える遍照山光明院と称される真言宗寺院である。山門はないが入口に石の柱が建てられている。境内は狭いがなかに安永六年(一七七七)の宝篋印塔や朱塗りの祠堂、それに蓮池や庭木がほどよくあしらわれ庭園のような感じを与える。また本堂前の庭木のなかに、新四国第十五番とある明治十七年の巡礼標識塔、明治三十四年の南無大師遍照金剛と刻まれた自然石の供養塔、同じく同三十四年の西国四国等順拝記念碑、それに朱塗りの小さな祠堂が建てられている。弘法大師像を納めた大師堂であるが、この扉前に〝薄く濃く わけ〳〵色を染ぬれは るてん生死の秋のもみち葉〟との御詠歌を記した額が掲げられている。

 また左手の生け垣の傍らに弘法大師の座像を戴いた明治三十六年の大きな順礼供養塔が立てられている。これには一番西新井総持寺、二番伊興地蔵院、三番伊興実相院などと八十八ヵ所の巡拝寺院の番号と寺院名が刻みこまれている。この巡拝寺院の範囲をみると、都内の足立区、埼玉の川口・草加・鳩ヶ谷・浦和・越谷の各市に及んでいる。

 これは明治十七年蒲生の大熊治右衛門などが中心になってはじめられた「三郡送り大師」の順礼行事で、例年三月二十五日頃から四月十日まで念仏や御詠歌を唱えながら八十八ヵ所を廻るのである。寺院の門前にみられる明治十七年の「新四国○○番」とある巡礼標識塔がそれにあたる。なお本堂の横手と裏手は墓地になっているが、ほとんどが新しい墓石で占められている。ただ歴代住職の墓所には、寛永十年(一六三三)と慶安二年(一六四九)在銘の大きな宝篋印塔墓石がみられる。

蒲生光明院送り大師塔