道を再び日光旧街道に戻り、大相模不動への道しるべから少し先の左に折れる小道を入ると、蒲生西浦集落の鎮守久伊豆神社前にでる。参道の右手は集会所でしかも境内は宅地に囲まれているが、数本の銀杏の木と松や杉の木がわずかに神域の景観を保っている。入口に立てられている木の鳥居は巨大な檜の丸太造りで見事なものである。その傍らにきよ・しん・さん・はると、その造塔者とみられる女人の名が刻まれた明和七年(一七七〇)の小さな庚申供養塔が立てられてある。参道正面の神殿は瓦葺のこじんまりした社殿であり、その横に文政十三年(一八三〇)の神明宮の石祠が一つ、その裏に木小屋があるがそのなかに御神木と刻まれた松の根株が収められている。
ここから旧街道を少し行くと左側の家の軒端に鳥とも河童(かつぱ)ともえたいの知れない異様な形の彫刻像を戴いた宝暦七年(一七五七)六月の砂利道供養塔が立てられている。この供養塔の造塔者はその石塔銘によると、常州大泉村神山藤左衛門、野州田野村添谷源左衛門、総州古河高橋喜兵次、江戸芝片門前南部屋八十次、江戸北八丁堀新井屋七兵衛、瓦曾根中村彦左衛門、登戸浜野徳左衛門、四条飯島久兵衛、蒲生中野弥三郎などであり、願主は蒲生村の名主大熊仁兵衛となっている。
この願主の大熊仁兵衛家は、蒲生草分けの旧家で世襲名主を勤めた家柄であり、しかも享保年間の関東洪水の際多くの窮民を救助したかどにより幕府から褒賞を受けている。もとこの辺りの地はすべて大熊家の屋敷地であったが、今はこの大熊家は没落してその家はない。
なお砂利道供養塔に戴せられてある異様な形の仏餉像は、地元では「ぎようだい様」あるいは「おかま様」「行者様」などと呼んでいるが、かつてはわらじの奉納が絶えなかったという。つまり人びとは交通の神様ことに足の神様として崇敬していたことが知れる。さらにこの先の日光旧街道筋の蒲生公民館と消防署蒲生分署の間にも同年号銘の角石による石塔が立てられている。これには「従此橋北通り長三百間之場所常州茨城郡袖山勝秀寄附」またその側面に「此内拾間の場所芳賀郡添谷長俊寄附」とあり、この年日光街道の大補修工事が施工されたことが知れるが、このとき多くの人びとがこの工事に協力したとみられる。とくにこの角塔の建立者である神山勝秀や添谷長俊が「ぎようだい様」の供養塔にも名をつらねているのは興味深い。
この砂利道供養塔から少し行った所に寺院がある。天文三年(一五三四)の創建を伝える慈眼山清蔵院と称される真言宗寺院である。墓地を横手にした参道はかなり広くこの中央部は舗装道になっている。瓦葺の山門前には昭和三十四年建碑になる自然石の大きな万霊感謝の大供養碑と大正七年の四国八十八ヵ所巡拝記念碑などが立てられている。また山門の梁間に金網で囲われた龍の彫物が掲げられているが、この龍は伝説によると寛永年間日光東照宮造営のため日光に向かった左甚五郎が、一夜の宿の御礼として彫刻していったものといわれる。ところがその後附近の田畑が何物かに荒らされるようになった。そこで不寝番を立てて見張りしたところ山門の龍が夜な夜な抜けだして田畑を荒らしていたのがわかった。このため村惣代が住職に龍の処置を頼んだことから住職は竜の目に釘を打ち込んだが、これに怒った龍はますます田畑を荒らした。そこで今度は龍を金網で囲ったところ龍の夜遊びはようやく収まったという。
こうした伝説を残している龍の彫刻物を掲げた山門をくぐると、右手に無縁仏を集めた墓石群が置かれてある。このなかに年代は不詳ながらおそらく寛永期頃のものとみられる宝篋印塔墓石が七基ほど交っている。この無縁仏群の前に鐘撞堂があり、ここに昭和五十三年鋳造の梵鐘がかけられている。また左手の生け垣に沿って昭和十六年の自然石による畜霊碑、昭和五十年の造立になる六地蔵、元禄十五年(一七〇二)の「奉造立供養六道能化為光明講中二世安楽」と刻まれた供養塔、宝暦六年(一七五六)の地蔵尊像供養塔、宝暦十年の阿弥陀の座像を戴いた廻国供養塔、昭和九年の弘法大師一千百年御遠忌供養塔、宝暦六年の宝篋印塔、明治三十二年の廻国供養塔、昭和二年の大法要記念碑、「新四国八十八ヵ所第十六番」とある明治十七年の巡礼標識塔、それに年代不詳ながら地蔵の立像に鬼に追われた子供達が助けを求める姿を陽刻した珍しい地蔵供養塔などがならべられている。
堂々とした構えの本堂は銅板葺で、昭和四十二、三年頃の改修になるものであるが、そのとき寛永年間の棟札が発見されている。また本堂の裏手は古くからの墓地であり、このなかに寛永十五年(一八三八)在銘のものをはじめ正保三年(一六四六)同四年、慶安二年(一六四九)在銘などの宝篋印塔墓石がみられる。
なお旧街道から右に折れる清蔵院前の小道は、蒲生の集落をつなぐ古道の一つで、今でこそ新興の住宅が数多く建てられているが、もとは水田や山林に覆われた淋しい一角であったようである。この中に古くから勧請されていた天神社がある。ここには寛文年間(一六六一~七三)からの産社祭礼年番帳が残されている。天神社は住宅に囲まれて狭い境内地であるが、このなかに皇紀二千六百年(昭和十五年)を記念して建てられた小さな石の鳥居と、その脇に寛政十三年(一八〇一)の青面金剛庚申塔、昭和十七年の耕地整理記念碑、昭和十六年の御手洗石などが置かれている。境内の周りには銀杏の木を中心に若干の杉の木などが植えられており、その奥に祠堂のようなこじんまりした瓦葺の神殿あがる。