道を旧街道に戻り清蔵院を過ぎると、旧街道は新道(現県道足立越谷線)に合わさる。ここから先は一面の水田地であったが今は商店を中心にさまざまな建物が軒をつらねている。この新道合流点から一つ目の信号のある交差点の横通りは柿木町蒲生線と称される県道で川柳地区伊原・麦塚に通じるバス路線でもあるが、この道筋はまだ空地が目立つ一角でもある。次の信号のある横道は、蒲生駅前に通じる駅前通りであり、駅前から東京葛西用水路の近くまで蒲生ではもっとも繁華な商店街が形成されている。
その先は東武自動車教習所であるが、ここはもと蒲生小学校が建てられていた所である。ところが学校と接続した国道四号線は昭和三十三、四年頃からその交通量が急激に増大、教育環境が甚しく劣悪な状況下に置かれたため、昭和三十七年この学校敷地を東武興業株式会社に売却、その資金で現在地の敷地を求め鉄筋三階建ての校舎が建設された。そして国道わきの学校跡地は現在みられるような自動車教習所になったのである。
またこの教習所と道路を隔てたところに蒲生公民館と越谷市農協蒲生支店の建物があるが、ここはもと蒲生役場の置かれていた場所で、昭和四十四年当時の蒲生支所は壊され現在の建物が設けられた。その先の越谷市消防署蒲生分署も昭和四十八年の開設になるものである。この公民館と蒲生分署の間に、先述の宝暦七年(一七五七)の日光街道補修施工の際の寄附記念塔が立てられている。
さらにこの先から三軒家までの間のかつての水田地は、明治九年六月三日、明治天皇東北巡幸の途次、天皇に田植え作業を御覧に入れた由緒ある地である。このとき田植えに参加したという古老の話によると、蒲生小学校北側から三軒家に至る間の国道左右の水田地が田植え観覧の場所と定められ三日前から準備が進められた。当日蒲生・登戸・瓦曾根・七左衛門・大間野の諸村から二十歳前後の男女数百人、新しい野良着で男は白襷、女は新しい菅笠に赤襷で村役人に付き添われて現場に到着、午前十時頃から田植えが始められたが、天皇は白根県令の先導により興味深くこの作業を観覧したという。
ところで三軒家とは現在の東武鉄道新越谷駅(武蔵野線南越谷駅)のあたりで、その手前の県道わきに昭和三十一年の建碑になる「明治天皇田植御覧之処」と刻まれた碑が鉄柵の囲いのなかに収められている。このほかこの囲いの中には明治三十九年建碑の忠勇碑、日清日露戦役蒲生村従軍者名が刻まれた同年銘の石碑、大東亜戦における蒲生村殉死者の名が刻まれた昭和三十九年の忠魂碑、それに昭和四十七年の四ヶ村用水組合八十年記念碑が立てられている。
なおこの場所は明治二十六年開通時の千住馬車鉄道の停留場でもあったところで、三軒ほどの茶店が設けられていたことから通称三軒家と呼ばれたようである。次いで明治三十二年東武鉄道が久喜駅まで開通した際、同年十二月当所の鉄道に沿って蒲生停車場が開設された。その後当停車場は立置的な問題からか、蒲生村有志の誘致運動によるものかつまびらかでないが、明治四十一年十二月現在地に移転された。そのとき記念として植えられた蒲生駅構内の銀杏の木は今でも枝葉を茂らせており、明治四十一年建造の古い駅舎とともに蒲生の名物になっている。
一方蒲生停車場が現在地に移された後の三軒家付近は、人もよりつかなくなり、ポプラの並木と水田地が広がる辺ぴな場所と化した。昭和三十四年「越谷の史蹟と伝説」取材のため当所を訪れた蒲生の学校教諭は、「水田のなかに農家が一軒あるだけの誠に淋しい場所で、どうしてここに駅が設置されたか不思議な感じがする。でも駅ができた頃は国道(現県道)から駅に通じる道があり、商店が何軒かあったが、耕地整理のときこの道もなくなり茶店もいつの間にか姿を消して水田ばかりの淋しい地になったということである」というようなことを述べている。つまりこの地に住宅や工場が進出したのはきわめて最近のことであったのである。現在この辺りはまだ空地が目立つものの、新興住宅地として住宅開発が盛んな所である。ことに日本有機工場の広い跡地には規模の大きな高層の住宅団地が造成されており、三軒家当時の面影を偲ぶことはむずかしい。
またこの先の高層建築物は昭和五十四年の開設になるダイエー南越谷店と越谷コミュニティセンター、その先は昭和四十八年開設の武蔵野東線南越谷駅と、同四十九年新設の東武鉄道新越谷駅で、駅を東西にはさんだ広い地域はすでに区画整理がほどこされており、将来この辺りが越谷市の中心地になるとも予想されている。