道を前に戻りロンシールエ業蒲生工場脇の十字路から左(東京に向かって)に折れていくと登戸の集落地に入る。この道筋には若干の新興住宅も建てられているが、古くからの農家を中心とした屋敷地が続き、古道の一つであるのがそれとわかる。この道は曲折しながらまもなく突き当たってT字路となる。その左側の大きな屋敷地が登戸村の世襲名主関根家である。関根家は登戸村の草分けで、古くは土豪層的存在であったが、江戸時代を通じても有力な名主層として地方行政に活躍をみせた。ことに歴代当主は俳諧(はいかい)や能(のう)などをたしなみ、江戸の文化人との交流も深かったが、現在でもその一族のなかに観世流謡曲の師匠を勤めている人がいる。なおこの家には今でも江戸時代の古文書が数多く残されているが、その一部は越谷市史編さん室に寄託されている。
さてこの関根家の屋敷地前に比較的大きな寺院がある。中興開山僧が天正十年(一五八二)の寂年を伝える報身山広西寺報土院と称される浄土宗寺院である。登戸閣と記された偏額が掲げられている山門をくぐると瓦葺の大きな構えをもった本堂があり、その前は広場になっている。その広場の隅に鐘撞堂があって梵鐘がかけられてあるが、何時の鋳造になるものか年代が刻まれてないので不明である。その横に文化六年(一八〇九)の青石による珍しい霊場順拝供養塔が立てられている。その先は墓地である。墓地の入口に元禄十年(一六九七)の六地蔵が瓦葺屋根囲いに納められている。
墓地はよく整理されており石垣で各家の墓所ごとに区画されている。この墓所の間に享保十五年(一七三〇)と安永九年(一七九四)それに年代不詳の青面金剛庚申塔、寛政六年(一七九四)の馬頭観音供養塔、天保十二年(一八四一)の南無阿弥陀仏供養塔などが立てられている。この報土院の裏手は、越谷市のなかでも比較的早く都市化が進んだ地域で、ここから東京葛西用水路それに谷古田用水路のふちまで密集した住宅地になっている。
また登戸には鎮守神として稲荷神社が勧請されているが、この鎮守は登戸の北はずれ国鉄武蔵野線線路敷堤の下にあり、住宅に囲まれてその所在はちょっとわかりずらいが、住宅の屋根越しにみえる松の木がわずかにその目標を示してくれる。このあたりは住宅のほか工場も多く、その間に空地が点在するなど閑散とした感じの場所である。参道は住宅の間に細長く続き、その間に昭和二十八年の花崗岩の幟立と同じく花崗岩の一の鳥居、その先に木造りの二の鳥居が立てられている。その左手の空地の片隅には寛政十一年(一七九九)の青面金剛庚申塔が一つ、忘れ去られたように置かれている。
神殿は奥殿を具えた瓦葺のこじんまりした社殿であり、拝殿の前に弘化二年(一八四五)の御手洗石と御神燈が一対、それに文政四年(一八二一)の狐をかたどった一対の石塔などが置かれている。細長い境内地には神社の目印ともなる枝振りのよい松の木をはじめ銀杏や杉の木が数十本植えられており、しかも境内地ぎりぎりに建てられている住宅の陰になって昼なお薄暗い神域をなしている。
ここかしこと廻り道をしながらのコースだったので、この行程の里数はつかみがたいがおよそ行程五キロメートル、日光旧街道を中心に歩いてみたが、これが少しでも、蒲生地区のうち蒲生・登戸の旧蹟をたずねるうえでの参考になれば幸いである。