『越谷ふるさと散歩(上)』のうち、その(六)「元荒川通り大相模地区コースその二」、南百(なんど)と千疋(せんびき)の項で、もと真言宗四条妙音院境内に、頭ばかりの聖徳太子像を祀った太子堂があり、多くの人びとの信仰を集めていたが、今はなくなっていると記した。
ところがその後別府金剛寺住職浅井堅教先生から、その聖徳太子像は金剛寺で大切に保管されている。現在太子堂を再建して当所に納めお祀りするという連絡をいただいた。そこで早速参上し太子像を拝観させて戴いた。太子像は等身大の厨子に納められた木像で、色鮮やかな彩色がほどこされており、さほど古い頃の作とはみえないが、問題の頭ばかりの太子像は、この等身大の太子像の胎内仏である。頭や顔の形がかろうじてわかるほどの風化したもので、その木目だけが浮出しており、一見してたいそう古い頃の彫刻仏であることが知れる。
この頭ばかりの太子像に関しては、『新編武蔵風土記稿』の四条妙音院太子堂の項に「聖徳太子の自作を腹籠(はらごも)りとす、頭計にて体はなしと云、霊験著(いちじる)しく、先年故ありて足立郡千住宿へ移せしに、当村及び彼村の者多く病災に罹(かか)りしゆへ、霊意に適(かな)はざるならんとて、元の如く当村へ復せりといへり」と記されている。
すなわちこの胎内に納められた頭ばかりの太子像は聖徳太子自(みず)からの彫刻像である。一時故あって足立郡千住宿へ移したが、四条の村人をはじめ千住宿の人びとのなかに病いにかかる者が続出した。そこで千住の地に移したのは太子の御心にかなわなかったからと知り、再び四条の地に戻したとある。いずれにせよ越谷では珍しく古い、しかも由緒をもった仏像とみられるが、幸い金剛寺の太子堂に納められお祀りされたのはたいへん喜ばしいことである。