越谷の生いたち

2~7/204ページ

原本の該当ページを見る

越谷市の誕生(たんじょう)

昭和二十九年十一月三日越ヶ谷町・大沢町・桜井村・大袋村・新方村・荻(おぎ)島村・出羽村・増林村・蒲生村・大相模(おおさがみ)村の二町八か村が合併(がっぺい)されて新しい越谷町が誕生しました。翌三十年十一月三日、いったん草加町へ合併した川柳村のうち伊原・麦塚・上谷(うわや)が境界を変更(へんこう)して越谷町に編入(へんにゅう)されました。こうして越谷町は南北に一一.五㎞、東西八.六㎞、面積は五九.七三㎢の町になりました。続いて昭和三十三年十一月三日全国で五四三番目、埼玉県では二二番目にあたる市制(しせい)が施行(しこう)されて越谷市となりました。当時の人口は四万八三一八人でした。

越谷市の位置

越谷市は埼玉県の東南部にあたり武蔵野台地と下総(しもうさ)台地の間にはさまれた沖積(ちゅうせき)地帯(流水によって運ばれた土砂でつくられた新しい陸地)の一角を占(し)めている首都圏(しゅとけん)(東京を中心とした地域)およそ三〇㎞の地に位置(いち)しています。

その境界は西はおよそ綾瀬(あやせ)川を境として草加・川口・浦和の各市に、北は岩槻・春日部の両市に、東は古利根川を境として松伏・吉川の両町に、南は草加市に接しています。この市内のなかには、市域の境になっている古利根川や綾瀬川のほか中央には元荒川が流れ、さらに葛西用水・末田大用水・須賀用水・新方川(千間堀)・出羽堀・八条用水・東京葛西用水・谷古田用水など数多くの水路が通(つう)じていて、古くから「水郷(すいごう)越谷」と呼ばれて親(した)しまれてきた地です。

また主な道路には南北をつらぬいて走る国道四号線(旧草加バイパス)をはじめ、もとの日光街道である県道足立(あだち)越谷線、古利根川にそって県道平方東京線、元荒川にそって吉川道と呼ばれた県道越谷流山線、同じく元荒川にそって岩槻道と呼ばれた県道岩槻越谷線、綾瀬川にそって慈恩寺(じおんじ)道ともいわれた県道蒲生(がもう)岩槻(いわつき)線、また東西に赤山街道と呼ばれてきた県道越谷鳩ヶ谷線、野田街道と呼ばれた県道越谷野田線(旧国道一六号線)などが通じています。

鉄道は明治三十二年に開通(かいつう)した東武鉄道が南北に通じていて、現在市内にはせんげん台駅・大袋駅・北越谷駅・越谷駅・新越谷駅・蒲生駅が設(もう)けられています。さらに昭和四十八年に開通した国鉄武蔵野線が東西をつらぬいていて、市内には南越谷駅が設けられています。このように電車の交通には恵まれていますが、バスの便があまりよくないのが現状です。

古代・中世の越谷

歴史の時代区分としては飛鳥(あすか)時代から平安時代までを古代(こだい)、鎌倉(かまくら)時代から桃山(ももやま)時代までを中世、徳川家康が関東に入国してから明治維新(いしん)までの江戸時代を近世、明治から今日までを近・現代と呼(よ)んでいます。また古代以前は古墳(こふん)時代、その前を弥生(やよい)時代、その前を縄文(じょうもん)時代と呼んでいますが、これらを総称(そうしょう)して先史(せんし)時代と呼んでいます。

ところで越谷・草加・杉戸・幸手などはもちろん、東武鉄道沿線のうち、栗橋や川俣(かわまた)(現羽生市)あたりまでの沖積(ちゅうせき)地帯は、古くは現在の東京湾の入江(いりえ)すなわち海の中でした。そのご利根川や荒川・渡良瀬(わたらせ)川など関東地方の多くの川が、むかし海であったこの低地(ていち)に集中して流れ、山地から運(はこ)んでくる川の流送(りゅうそう)土砂によって陸地になったのです。こうして陸地になった新しい土地に人びとが生活するようになったのは、およそ弥生時代から古墳時代にかけてのころといわれます。

さきたま古墳群で有名な行田(ぎょうだ)あたりは、早くから開け古墳時代の全盛期を迎えていますが、越谷の地に人びとが住(す)みついたのは、いつからでしよう。昭和四十一年から四十二年にかけて発掘(はっくつ)調査された見田方住居跡の出土(しゅつど)品からみて、およそ古墳時代後期(こうき)から奈良・平安時代にかけて(六〇〇~七〇〇)のことと推定(すいてい)されています。また寺院や神社の伝えでは、大相模(おおさがみ)の不動さん(現相模町大聖寺)は天平勝宝二年(七五〇)、野島の地蔵さん(浄山寺)は貞観(じょうかん)三年(八六一)、大沢の浅間神社が長元(ちょうげん)七年(一〇三四)という古いころの創立(そうりつ)を伝えています。

このほか、越ヶ谷久伊豆(ひさいず)神社をはじめ越谷市内の主な寺院や神社は、いずれも中世(一一九二~一五九〇)の創建(そうけん)を伝(つた)えていますし、武士の先祖といわれる武蔵七党(むさししちとう)のうち野与党(のよとう)に属(ぞく)した古志賀谷(こしがや)次郎や大相模次郎、八条五郎などの名が「千葉大系図(けいず)」という系図書に書かれています。また中世の文化財ともいえる板碑(いたび)(青石塔婆(あおいしとうば)ともいいます)が建長(けんちょう)元年(一二四九)銘(めい)のものをはじめ二〇〇基(き)以上も確認(かくにん)されています。ですから、すくなくとも中世の越谷には人びとの生活が活発(かっぱつ)に展開(てんかい)されていたのはたしかでしょう。当時の地域区分は、現在の元荒川を境に武蔵国と下総国に分けられ、広い地域を総称して越ヶ谷郷・新方庄・大相模郷・八条郷などと呼(よ)ばれていました。このうち新方庄は下総国に属(ぞく)していました。この地が武蔵国に編入されたのは、太田道灌(どうかん)が岩槻を支配していたころともいわれます。ただし、確(たし)かなことはわかりません。

近世の越谷

天正十八年(一五九〇)徳川家康が関東を支配することになってから、年貢(ねんぐ)(税金)を納めたり、戸籍をつくったりする自治的な新しい村がつくられていきました。こうした村は、市内では越ヶ谷や大沢をふくめ五一か村を数えますが、このときの村名は、たとえば「越谷市大字(おおあざ)四条」というように最近(さいきん)までほとんどが大字として残されていました。

また徳川幕府(ばくふ)(武家(ぶけ)の政権(せいけん))、は利根川や荒川などのつけかえ工事をして新田の開発(かいはつ)を進めました。このため越谷を流れていた利根川は古い利根川、荒川は元の荒川と呼ばれるようになったのです。利根川や荒川のつけかえで新しい田んぼがたくさんできました。越谷近辺では、出羽地区の大部分(会田七左衛門の開発)や、弥十郎(大房村弥十郎の開発)、それに草加市域の新田村などがあります。

当時越谷の地の多くは水田稲作地帯(すいでんいなさくちたい)で、ここからは良質な米や糯米(もちごめ)、蓮根(れんこん)やくわい・芹(せり)などが産出(さんしゅつ)されました。一方袋山や大房・大林などの畑作(はたさく)地帯は梅や桃の産地として有名でしたが、ことに桃は越谷の桃と呼ばれ、多くの人が桃の花見に越谷を訪(おとず)れていました。また手工業としては桐箱や越ヶ谷雛(ひな)人形、それにだるまの製造(せいぞう)が盛(さか)んでした。

また越ヶ谷・大沢は、日光街道(かいどう)の要衝(ようしょう)(重要な所)にあたっていた関係から、人工的な宿場町がつくられ、両町合わせて越ヶ谷宿(じゅく)と呼ばれました。そして街道筋の交通都市(とし)として旅籠屋(はたごや)(旅館)やお茶屋がたちならび、たいそう繁昌(はんじょう)しました。このうち越ヶ谷は、古くから二・七の六斎市(ろくさいいち)(月に六度開かれる市)が開かれ、近郷(きんごう)村々の中心的な商業都市でもありました。

近現代の越谷

明治(一八六八~)になると、西洋文明(ぶんめい)をとり入れた明治政府によって、政治や経済(けいざい)のしくみが変(か)えられていきました。これを近代化と呼んでいます。

行政面(ぎょうせいめん)では、明治二十二年に町村合併(がっぺい)が行(おこな)われ、それまでの二町四十九か村(川柳の二か村を含む)は、一町八か村(川柳村は含みません。また越ヶ谷と大沢は組合町になりましたが、明治三十五年に分離しましたのでそれからは二町八か村となりました)に統合(とうごう)されました。

この間(かん)、明治五年には学制(がくせい)(義務(ぎむ)教育)が発布(はっぷ)されて、翌六年からは各地に学校が設(もう)けられていきました。はじめは、各地域の寺院などが教室に利用されましたが、次第に独立校舎(どくりつこうしゃ)が建(た)てられ、高等小学校なども併設(へいせつ)されるようになりました。また明治二十六年には、千住から粕壁(かすかべ)に至(いた)る日光街道に、鉄道馬車(てつどうばしゃ)が開通しましたが、同三十二年には東武鉄道が開通し、大正二年からは、電灯がひかれるなど、近代化が進みました。

こうしたなかで、農業を中心とした越谷の農村は江戸時代からの生活様式(ようしき)をうけつぎ、喜びや悲しみをともにしたつきあいのもとに、農作業はもちろん、冠婚葬祭(かんこんそうさい)や用排水路(ようはいすいろ)あるいは道路の補修(ほしゅう)なども共同で行っていたのが普通でした。これを生活共同体(きょうどうたい)とも呼んでいます。

ところが太平洋戦後、諸制度(しょせいど)の改革(かいかく)が行われましたが、それとともに人びとの考え方が変(か)わっていきました。とくに昭和三十七、八年を境に、越谷の地にも都市化が進(すす)んでいくと、日常の生活様式は一変し、昔からの村のしきたりもなくなっていきました。こうしたなかで、私たちは今後どのように生活していくか、本当に大切な時代にきていると思われます。でもこうしたときだけに、私たちは今一度私たちの先祖がたどってきた道をふりかえり、現在を考えてみるのも大切なことではないかと思われます。

別府金剛寺の板碑
越谷町合併3周年記念式会場
現在の越谷駅前通り