わたしたちの学校

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越谷の学校

江戸時代から明治のはじめにかけての学校は、寺院の堂舎(どうしゃ)や個人(こじん)の住宅を利用した個人経営(けいえい)が主(おも)で、これを寺子屋(てらこや)と呼んでいました。当時は学問をしなければいけないという規則(きそく)もなかったので、寺子屋にかよう子どももきわめて限(かぎ)られた数でしかありませんでした。ところが明治五年八月、政府(せいふ)(政治を行う中央官庁(かんちょう))は「村に不学の家がなく、家に不学の人がない」ようにしたいとして学制(がくせい)を発布(はっぷ)しました。

そこで全国の都市や農村のすみずみにまで学校が設(もう)けられるようになりました。越谷でも、明治六年には大沢の公立啓明(けいめい)学校をはじめ、東方村(現大成町)の私立培根(ばいこん)学校など、各地に一九の学校が設立されました。はじめ小学校は下等四年、上等四年の八年制でしたが、就学(しゅうがく)する児童はきわめて少なかったようです。そこで明治十四年には初等科三年、中等科三年、高等科三年に改(あらた)め、せめて初等科だけでも就学するようすすめましたが、それでも就学する児童は豊(ゆた)かな家の子など、限(かぎ)られた児童にすぎませんでした。

やがて明治二十二年に町村合併(がっぺい)が行われて新しい町や村ができました。このとき数多くあった学校は一町村一校に統合(とうごう)されて、新しい町村名をつけた尋常小学校が設(もう)けられました。ついで明治三十年にはそれまで強制的でなかった小学校生徒は四年の義務制となり、すべての児童が学校に行くように強要されました。そして二か年の高等科が新しく設けられました。さらに明治四十年には尋常小学科が六年に延長(えんちょう)されて六年の義務制になりました。高等科への就学は自由でしたが、大正期にはどこの小学校にも高等科が併設(へいせつ)されましたので、どこの小学校も、たとえば増林尋常高等小学校というような学校名になりました。ついで昭和十六年には、尋常高等小学校の名称は、国民学校と改められて、戦争のために役立つ学校に変(か)えられていきました。やがて戦後の昭和二十二年には、学校制度が新しく組みかえられ市町村の管理に移されました。その義務年限も小学校が六年、中学校が三年の九か年に改められました。これを普通六・三制といっています。同時に学校の名称も国民学校から小学校という、名に改められました。ついで同二十三年教育委員会法が定められ、学校の業務は、教育委員会の所管(しょかん)に移されました。

このころは中学校も小学校の敷(しき)地のなかに置かれていましたが、昭和三十二年に新設された東中学校をはじめとして二つ以上の中学校を一つにした、独立校舎の中学校が建てられていきました。これを統合中学校といいました。その後、越谷市は昭和四十年ごろから急激に人口が増加したため、昭和四十三年からつぎつぎと小学校や中学校が新設されていきました。なかには一年に三校も建設(けんせつ)されたときもあって、昭和五十六年には小学校が二八校、中学校が一三校を数えました。これら新設小学校や中学校の紹介(しょうかい)はつぎの機会(きかい)にゆずるとして、ここでは明治二十二年から、長い間定着(ていちゃく)していた旧町村(各地区)の一一校の小学校と、五校の統合中学校の沿革(えんかく)(うつりかわり)をかんたんにみていくことにします。

越ヶ谷小学校

明治六年、越ヶ谷宿(じゅく)の中央に越ヶ谷学校が開設(かいせつ)されましたが、場所ははっきりしません。翌七年越ヶ谷町は三九六戸が焼けるという大火災になり、このとき学校も焼けてしまいました。でもすぐ復興(ふっこう)したようで、同十一年には瓦曾根村、同十四年には花田村が越ヶ谷学校に編入(へんにゅう)となりました。でも同十八年には連合戸長(れんごうこちょう)役場ができたので学区が変更され、瓦曾根が蒲生学校に、花田が増林学校に移りました。

ついで明治二十二年、越ヶ谷学校は大沢学校と連合することになり学校名も共和学校と改められました。このうち越ヶ谷校舎は共和学校第一教室と呼ばれました。つづいて明治三十五年新校舎が現在地に建てられましたが、このとき共和学校は解散され、越ヶ谷尋常小学校と改称されました。戦後の昭和二十四年教室一棟が火災にあって焼失しましたが、翌二十五年木造平屋建一二教室、同三十一年には木造二階三教室が増改築されました。

そして同三十八年には鉄筋(てっきん)三階建一二教室、同四十一年には一五教室、同四十三年には九教室が増築されました。その後、昭和四十五年東越谷小学校の新設にともない、通学区が変更となり一部の生徒が東越谷小学校に移りました。

大沢小学校

明治六年公立啓明(けいめい)学校が大沢の照光(しょうこう)院に開設されましたが、この公立学校は明治九年四町野村の迎摂院(こうしょういん)に移されました。同時に大沢・大房・大林の一町二か村による大沢学校が照光院(しょうこういん)に開校されました。このうち大林村は同十四年袋山学校に編入となりましたが、同二十二年には大房も大袋学校に編入となっています。

このとき大沢町は越ヶ谷町と連合し、組合立共和学校をつくりましたが、大沢町ではこのとき、現在地に独立校舎を設け共和学校第二教室と呼びました。この共和学校も明治三十五年越ヶ谷町との連合が解除されて大沢尋常小学校と改められました。その後大正十一年に高等科が併設(へいせつ)されて大沢尋常高等小学校となりました。

その後生徒数がふえるにともない、昭和二年に木造二階建八教室、同十四年に木造平屋建一教室、同二十八年木造二階建六教室、同三十三年には木造二階建八教室が増改築されましたが、同四十一年鉄筋三階建校舎に改築されました。

桜井小学校

明治六年、平方村林西(りんさい)寺に平方学校が開校しました。同十九年平方村と袋山学校通学区のうち上間久里(まくり)・下間久里・大里(おおさと)、それに船渡(ふなと)学校通学区のうち大泊(おおどまり)が統合(とうごう)し、新たに大泊学校が大泊安国寺に開設されました。この大泊学校は同二十五年に桜井尋常小学校と改称されています。現在地へ移ったのは大正三年のことで、このとき独立した校舎が建てられました。そして大正七年には高等科が併設されて桜井尋常高等小学校とその名も改められました。

戦後の昭和三十七年、生徒数の増加により木造平屋建三教室が増築されましたが、同四十四年から四十五年にかけて鉄筋三階建の新校舎になりました。四十七年火災によって二教室が焼失しましたが、間もなく復旧(ふっきゆう)しています。また、四十六年に大沢北小学校、五十年には平方小学校が新設され、通学区が変更されて、一部の生徒はそれぞれの新校に転出しました。

新方小学校

明治七年、船渡村竜正(りゅうしょう)寺に船渡学校が開校されましたが、同十四年向畑の観音堂に向畑学校が開校されると、船渡学校は大杉・大松・船渡の児童が通学する分校になりました。同十八年向畑学校は大吉村徳蔵寺に移され大吉学校と呼ばれましたが、翌十九年再び向畑観音堂に校舎が移され、また向畑学校と呼ばれました。

明治二十二年、新方村が成立し、その名も新方尋常小学校と改められ、観音堂境内に独立校舎が建てられました。でもこの校舎は明治三十一年に火災をうけたため、大松清浄(しょうじょう)院を仮(か)りの校舎としました。この年船渡分校が廃止(はいし)されるとともに翌三十二年現在地に新校舎が建設されました。

その後生徒数の増加にともない昭和九年、三教室が増築されましたが、同三十九年には木造二階建八教室に改築されました。ついで同四十五年には鉄筋三階建の新校舎と体育館が建設されました。

大袋小学校

明治六年、大竹村東養寺に大竹学校、袋山村持福(じふく)院に袋山学校が開校されました。同十九年、袋山学校は大竹学校に統合され、三野宮や大道など六か村で運営(うんえい)されました。同二十二年町村合併のとき六か村のほか大房村と恩間新田村が大袋村に入りましたので、大竹学校は八ゕ村による運営のもとで大袋尋常小学校と改称されました。

翌(よく)二十三年大竹の東畑(現在地)に独立校舎が建設されましたが、生徒数の増加で同二十七年と三十五年に校舎の増築が行われています。ついで昭和九年木造二階建の校舎に改築されましたが、昭和四十一年には鉄筋三階建九教室、同四十四年には一二教室、同四十六年には一五教室の増築が行われました。その後同四十六年に大沢北小学校、四十七年に大袋北小学校、四十九年に大袋東小学校が開校し、そのたびに通学区の変更があって、一部の生徒はそれぞれの新設校に移りました。

荻島小学校

明治六年、荻島村玉泉院(ぎょくせんいん)に荻島学校(明治十二年から南荻島学校)、西新井村西教院(さいきょういん)に西新井学校が開校されました。同十七年荻島学校の仮校舎が増築され、西新井学校は荻島学校の分校になりました。同二十二年町村合併でその名も荻島尋常小学校と改められました。同四十二年南荻島の現在地に独立校舎が建設されましたが、おそらくこのとき西新井の分校が廃止されたとみられます。

ついで大正十一年に高等科が併設(へいせつ)されて荻島尋常高等小学校となりました。その後、生徒数の増加により、昭和五年には木造二階建八教室の校舎が完成しましたが、同三十三年には木造二階建六教室が増築されました。ついで四十三年には鉄筋三階建の新校舎が完成しました。

増林小学校

明治六年、増林林泉寺(りんせんじ)に増林学校、増森村真正寺(しんしょうじ)に増森学校、小林村東福寺に小林学校が開校しました。このうち増林学校は明治十五年林泉寺の前に独立校舎を建て、同十九年に増森学校と小林学校を統合しましたが、同二十年教室の不足から、一部林泉寺の庫裏(くり)を借用して授業が続けられました。同二十二年の町村合併で学校名も増林尋常小学校と改称されましたが、同二十五年には新校舎に建てかえられ、同三十年には増築が行われています。

その後大正三年、現在地に新しい校舎が建てられましたが、その建物の一部は林泉寺前の旧校舎を移したものです。同七年高等科を併設して増林尋常高等小学校と改称されました。昭和七年、生徒数の増加により木造二階建八教室の増改築が行われましたが、三十四年には六教室、三十五年にも六教室、三十七年にも六教室が増築されました。ついで四十九年には鉄筋三階建の新校舎が完成しました。この間(かん)、四十五年には東越谷小学校が開校し、通学区の変更が行われて、一部の生徒は新設校に移りました。

出羽小学校

明治六年、七左衛門村観照院(かんしょういん)に育幼(いくよう)学校、越巻村(現新川町)満蔵院(まんぞういん)に越巻学校が開校しました。また明治九年には、公立啓明学校が大沢照光院から四町野村迎摂院(こうしょういん)に移されました。ついで越巻学校は明治十四年には育幼学校に統合されました。同十九年には観照院の育幼学校も啓明学校に統合されましたが、このとき啓明学校は四町野学校と改称されました。ただし育幼学校は四町野学校の分教場として残されました。同二十二年の町村合併によって出羽村ができると、その名も出羽尋常小学校と改められました。ついで同二十四年には四町野に独立校舎が建設されて、七左衛門観照院の分教場は廃止(はいし)されました。同三十二年、出羽小学校は火災にあって全焼したため、再(ふたた)び観照院を仮校舎として授業が続けられましたが、同三十四年、谷中の現在地に新校舎が完成しました。

その後大正十二年高等科が併置(へいち)されたので、その名も出羽尋常高等小学校と改められました。昭和十四年、生徒数の増加にともない校舎一棟、三十一年には木造平屋建二教室が増築されました。さらに四十四年には鉄筋校舎一二教室、四十六年には一八教室が増改築されましたが、四十九年には鉄筋三階建の新校舎が完成しました。

蒲生小学校

明治六年、蒲生村(がもうむら)清蔵院(せいぞういん)に蒲生村と登戸村の連合である蒲生学校が、瓦曾根村照蓮院(しょうれんいん)に瓦曾根学校が開校しました。このうち瓦曾根学校は一時越ヶ谷学校に統合されましたが、同十七年改めて蒲生学校に移されました。蒲生学校は、同二十二年の町村合併後、蒲生尋常小学校と改称されましたが、同三十二年日光街道わきに独立校舎が建設されました。大正十二年高等科を併置するにともない、その名も蒲生尋常高等小学校と改められました。

その後、昭和二十八年木造平屋建四教室が増築されましたが、同三十八年には現在地に鉄筋三階建一九教室の新校舎が完成しました。さらに四十年には一二教室、四十三年には一八教室が増築されました。この間(かん)、四十二年に川柳小学校・四十三年に南越谷小学校・四十八年に蒲生南小学校が開校し、そのたびに通学区の変更があって、一部の生徒はそれぞれの新設校に移りました。

大相模小学校

明治六年、西方村安養院に進文(しんぶん)学校、東方村観音寺に培根(ばいこん)学校、同七年に千疋(せんびき)村東養寺に千疋学校が開校されました。同十九年進文・培根・千疋の三校が一しょになり、新たに東方学校が観音寺に開校されました。が、同二十年校舎の増築が行われています。ついで、同二十二年の町村合併で大相模村が成立したのにともない、その名も大相模尋常小学校と改められました。

ついで、同三十五年東方観音寺の東の方にあたる現在地に独立校舎が建てられました。そして同四十二年には増改築されています。ついで大正四年高等科が併置されその名も大相模尋常高等小学校と改められました。その後、生徒数の増加にともない昭和十二年には木造二階建八教室に増改築されましたが、同三十六年にはさらに六教室が増築されました。ついで、四十三年鉄筋三階建一二教室、四十六年には六教室が増築されましたが、四十九年には新たに、鉄筋四階建一六教室の新校舎となりました。

川柳小学校

明治六年、青柳村三蔵院に青柳(あおやぎ)学校、同七年に柿木村東漸院(とうざんいん)に、千疋学校の分校として柿木(かきのき)学校が開校しました。このうち柿木学校は明治九年千疋学校と分離して独立校となりましたが、千疋学校の一部の児童は柿木学校に登校しました。ついで明治十九年、柿木学校は青柳学校に統合されています。また柿木学校は明治二十六年に川柳尋常小学校と改称されました。つづいて明治三十三年、独立校舎が完成するとともに高等科が併置されて、川柳尋常高等小学校と改められました。

その後、川柳村は昭和三十年に草加町と合併しましたが、同年十一月三日川柳村のうち伊原・麦塚・上谷が境界(きょうかい)を変更して越谷町に編入となりました。そして川柳小学校は、草加と越谷の組合立てで授業が続けられましたが、四十年に組合は廃止されて草加市立川柳小学校となりました。でも越谷市川柳の児童は、四十二年に越谷市立川柳小学校が新たに建設されるまでは、草加の川柳小学校に通学していました。

東中学校

昭和二十九年、町村合併で新たに越谷町が誕生した後、越谷町では各地区に設(もう)けられていた一〇校の中学校を五校に統合(とうごう)しようとする計画(けいかく)を進めました。このうち増林と大相模の中学校は独立校舎がなく小学校と同居していたので、とくに新設中学校を早く設置するよう、その要望(ようぼう)が強かったといいます。そこで昭和三十一年増林と大相模を結(むす)ぶ不動橋が元荒川にかけられ、不動橋のふもと、東小林の元荒川河川敷(かせんしき)に校舎の建設が進められました。そして、翌三十二年三月に完成しました。

この越谷ではじめての統合中学校の名は、一般の人びとからの応募(おうぼ)によって東中学校と名付けられました。でもこのときは教室が足らなかったので三年生だけが収容され、一、二年生は旧校舎を分教場として登校していました。次いで、同年九月校舎一棟(ひとむね)六教室の増築が完成し、分校の一、二年生も新校舎に収容されました。それで東中学校では、この落成式(らくせいしき)が行われた九月二十五日を開校記念日としています。

その後、三十五年二月、大沢小学校の一部校舎を移し、電機工作室などの特別教室が設けられました。また生徒数の増大(ぞうだい)から三十六年三月、四数室の増築が行われ、同三十九年三月には市内最初の体育館が設けられました。ついで四十二年四月鉄筋三階建の校舎が完成しました。

中央中学校

昭和二十二年四月、六・三制教育の施行(しこう)にともない、越ヶ谷新制中学校は、越ヶ谷小学校(当時国民学校)の一部教室を借りて開校されました。翌二十三年越ヶ谷中学校は、廃校(はいこう)になった東武実業学校の校舎に移りました。ついで二十四年二月、三教室が増築されましたが、二十九年八月、越ヶ谷町宮前に普通教室八教室、特別教室三教室の新校舎が完成しましたので、この新校舎に移りました。

また大沢中学校は昭和二十二年四月、大沢小学校内に併置(へいち)されて開校されましたが、二十四年十一月、三教室、二十六年四月、四教室の独立校舎を建てました。つづいて二十九年十月二階建校舎一棟の増築工事が完成しましたが、この校舎は三十三年四月に火災で焼失しました。やがて三十四年十月、越ヶ谷中学校と大沢中学校が廃止され、新たに両校を統合した中央中学校が越谷市宮前の旧越ヶ谷中学校敷地に建設されました。当時は鉄筋二階建一〇教室で、この開校された十月一日が開校記念日になっています。

ついで生徒数の増加により、三十五年十二月鉄筋二階建四教室、三十六年十一月理科室など特別教室六教室、同四十三年三月四教室の増築が行われましたが、五十年一月には鉄筋四階建の新校舎が完成しました。

南中学校

昭和二十二年四月、蒲生村では旧蒲生青年学校の教室と同小学校の一教室を借りて蒲生中学校を開校させました。同二十五年六月四教室の独立校舎が完成し、校舎の移転が行われましたが、生徒数の増加から二十九年三教室が増築されました。そして三十五年四月一日、蒲生中学校の名称を南中学校と改めました。同時に鉄筋二階建六教室が増築されましたが、同三十八年八月、国道四号線(現在県道足立越谷線)沿いの校舎を廃止し、新たに四号線から少し離れた地に、鉄筋三階建一三教室が建てられてここに移転しました。

ついで三十九年九月、特別教室六教室、四十一年には三階建を四階建に増改築しましたが、四十五年四月、川柳町の現在地に移転しました。

北中学校

昭和三十五年三月、新方中学校、大袋中学校、桜井中学校が廃止されて、三校の統合である北中学校が開校されましたが、はじめはそれぞれ分教場としてもとの各中学校に登校していました。翌三十六年五月、現在地に鉄筋三階建九教室の校舎が建設され、一部生徒がここに移りました。次いで同年九月の第二期工事、三十七年九月の第三期工事が完成し、それまで分教場に登校していた生徒もすべてこの新校舎に移りました。ついで三十八年七月、二階建四教室の特別室、四十三年二月、鉄筋四階建八教室、同四十八年一月、鉄筋四階建一二教室の増改築が完成し今日にいたっています。

西中学校

昭和二十二年四月に発足(ほっそく)した新制出羽中学校は、旧出羽村役場と出羽小学校の講堂を教室にあてて開校しました。同二十四年十一月独立校舎が建設され、二十七年九月には校舎が増築されました。

また荻島中学校は、昭和二十二年四月荻島小学校内に開校されましたが、二十五年三月には荻島の出津に独立校舎が建設されました。その後、荻島中学校と出羽中学校の統合が進められ、三十八年七月、神明下に鉄筋三階建と木造平屋建の一五教室が完成し、西中学校と改められました。

明治初期の教科書
昭和30年頃の越ケ谷小学校
戦前の国語教科書
戦前の教科書
越ケ谷中学校第一回卒業生

新設小・中学校(開校当時)
校名 年月日 所在地 建物 普通教室
南越谷小 昭和四十三年四月 瓦曾根 鉄筋三階建 三五教室
蒲生第二小 昭和四十四年四月 蒲生旭町 鉄筋三・四階建 二九教室
東越谷小 昭和四十五年四月 花田 鉄筋三階建 三〇教室
大沢北小 昭和四十六年四月 大林 鉄筋三階建 三七教室
大袋北小 昭和四十七年四月 袋山 鉄筋四階建 二六教室
蒲生南小 昭和四十八年四月 蒲生南町 鉄筋三・四階建 二六教室
北越谷小 昭和四十八年四月 北越谷 鉄筋四階建 二三教室
大袋東小 昭和四十九年四月 袋山 鉄筋四階建 二二教室
平方小 昭和五十年四月 平方  鉄筋三・四階建 二七教室
弥栄小 昭和五十年四月 北川崎 鉄筋四階建 三一教室
大間野小 昭和五十年四月 大間野町 鉄筋三・四階建 一八教室
宮本小 昭和五十一年四月 宮本町 鉄筋四階建 二九教室
西方小 昭和五十一年四月 西方 鉄筋四階建 二六教室
鷺後小 昭和五十三年四月 大沢鷺後 鉄筋四階建 二三教室
明正小 昭和五十四年四月 川柳町 鉄筋四階建 一九教室
干間台小 昭和五十六年四月 大道 鉄筋四階建 三二教室
桜井南小 昭和五十六年四月 下間久里 鉄筋四階建 四〇教室
富士中 昭和四十七年四月 七左町 鉄筋四階建 一八教室
北陽中 昭和四十九年四月 大松 鉄筋四階建 二二教室
栄進中 昭和五十一年四月 大沢 鉄筋五階建 二四教室
光陽中 昭和五十二年四月 川柳町 鉄筋五階建 二七教室
平方中 昭和五十三年四月 平方 鉄筋五階建 二一教室
武蔵野中 昭和五十四年四月 大間野町 鉄筋五階建 二一教室
大袋中 昭和五十五年四月 大竹 鉄筋五階建 二七教室
新栄中 昭和五十六年四月 大吉 鉄筋五階建 二一教室