越谷の地名
わたしたちが住(す)んでいる土地の名まえには、いろいろな意味や由来(ゆらい)があります。ことに越谷は「越谷の生いたち」でみてきたように遠い昔は海でしたが、河川の流送(りゅうそう)土砂でだんだん陸地になった土地です。そして人びとがこの地に住みついたとき、その場所の自然の様子やその自然環境(かんきょう)よってその地の名をつけたところが数多くあります。荻島(おぎしま)や船渡(ふなと)、蒲生(がもう)、越ヶ谷などもそうです。
また古い時代、条里制(じょうりせい)といって田畑や住まいの区画整理(くかくせいり)が行われましたが、この条里にちなんで名付けられたところもあります。一条とか一町とか一坪(つぼ)とか保(ほ)とかの地名がそれです。越谷には四町野(しちょうの)(現宮本町)・三町野(増林)・四条・別府(べっぷ)(現東町)・大里などの地名がありますが、これらは、はたして条里にちなんだ地名かどうか確(たし)かでないものの、条里の遺名(いめい)(なごり)ではないかともいわれています。
このほか増林のなかに「定使野(じょうつかいの)」という所がありますが、これは土豪(どごう)などの下働きである定使が住んでいたところ、神明下にある「在家(ざいけ)」という地名はそこに人家があったところ、また西新井(にしあらい)に「堀の内」という所がありますが、これは堀をめぐらせた土豪の屋敷(やしき)内であったところ、大相模の西方、東方は大相模郷のうち西の方、東の方という意味でしょう。また新田を開発(かいはつ)した人の名前をとって名付けられた所もあります。七左衛門村や弥十郎村などがそれです。
このように地名はさまざまな理由から名付けられたものですが、歴史をしらべるうえではたいへん重要なものです。そこで今後越谷の地名をしらべるうえで、みなさんの参考となるように、いくつかの地名をこれから考えていきたいと思います。