越ヶ谷地区

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越ヶ谷郷

江戸時代以前は、現在の出羽地区や荻島(おぎしま)地区(袋山をふくみます)、それに越ヶ谷・瓦曾根(かわらぞね)・花田・岩槻市鈎上(かぎあげ)などの広い地域を「越ヶ谷郷」と呼んでいました。この越ヶ谷の地名に関(かん)しては、関東の武士団である千葉氏(ちばし)の系図(けいず)のなかに、今からおよそ九〇〇年ぐらい前の人とみられる「古志賀谷(こしがや)」という人の名が載(の)せられています。当時の人はそこに住んでいる土地の名を苗字(みょうじ)としていたので、越ヶ谷は古くからの地名であったことがわかります。

また今から四二〇年ほど前の永禄五年(一五六二)という年に、関東を支配(しはい)していた小田原の北条(ほうじょう)氏が、葛西(かさい)(現在の葛飾区や江戸川区など)の本田という武士(ぶし)にあてた文書に、越谷・舎人(とねり)(現在の足立区の一部)は大郷(たいごう)(大きな広い土地)であると書かれています。

その後、徳川家康が関東に入国し、やがて天下をとると、中山道や東海道など、江戸を中心とした街道(かいどう)を整備(せいび)し、人馬のなかつぎ所である宿場(しゅくば)をとりたてました。当時は馬や人が荷物や旅人(たびびと)を運(はこ)んだので、この馬や人のつかれを防(ふせ)ぐため、少なくとも二里(八キロ)か三里ごとに、人馬を交代(こうたい)させたり、旅人を休泊(きゅうはく)させる宿場(しゅくば)が心要であったのです。

このとき、瓦曾根から四町野にかけての道中(どうちゅう)筋(後の日光街道)に人工による新(あら)たな家並(いえなみ)がつくられ、宿場が設(もう)けられました。つまり四町野や瓦曾根などから、新たに独立(どくりつ)した町がここにつくられたわけです。そしてここが越ヶ谷郷の中心であるとして、この地の名を郷名(ごうめい)である越ヶ谷の名をとって、とくに越ヶ谷町と名付けました。関東に入国した徳川氏は、広い地域の呼び名である郷や庄(しょう)をなくし、行政組織(ぎょうせいそしき)であるたくさんの独立した村をつくったわけで、このときから「越ヶ谷郷」という郷名はなくなったのです。

ところで「コシガヤ」の地名はいろいろ言われていますが、「コシ」とは腰とも書かれ、山や丘などのふもとをさし、「ヤ」とは湿地(しっち)などの低い土地をさすそうです。すると越ヶ谷の「コシ」の上にあたるものは、赤山の百観音(かんのん)や野田のさぎ山のある武蔵野台地(赤土の高い土地)にあたります。そして「ヤ」とはその台地のふもと(コシ)にあたる低い土地ということになります。こうして台地のふもとにあたる広い地域が「コシガヤ」と呼ばれたと考えられます。

越ヶ谷町

越ヶ谷町は、江戸時代からの独立した町でしたが、明治二十二年に大沢町と組合町をつくりました。その後、さまざまな理由から明治三十五年に分離(ぶんり)し、ふたたび越ヶ谷町と大沢町に分かれました。そして昭和二十九年、越ヶ谷・大沢をはじめ二町八か村が合併(がっぺい)し、越ヶ谷のケをとって越谷町と名付けました。現在もとの越ヶ谷町は、越ヶ谷地区と呼ばれています。

さて越ヶ谷町は奥州(おうしゅう)街道(後の日光街道)の宿場として新たに誕生(たんじょう)した町です。はじめ町内は本町と新町とに分けられましたが、この間に越ヶ谷郷のもとの土豪(どごう)(在地の武士)会田出羽が所有した土地があったので、そこをとくに中町と名付け、三町に区分(くぶん)されたといわれます。このほか越ヶ谷には袋町・観音横町・御殿・新道(しんみち)などと名付けられた所があります。

観音(かんのん)横町は、ここを通る道がもと荒川(後の元荒川)の土手(どて)づたいに通(つう)じる古いころの奥州街道で、ここから土手をはなれ越ヶ谷町の中町に続いていました。ところが草加から越ヶ谷に至る日光街道(現県道足立越谷線)が、新たにできたため、古くからの土手づたいの道は横道になったわけです。そしてこの辺りは横道の町、すなわち横町と呼ばれるようになりました。そしてこの横道にそって、観音堂があったので観音横町と呼ばれたのです。

また袋町は、本町と中町の東うらの地にあたりますが、このあたりは元荒川に袋のように囲(かこ)まれた行きどまりの地でしたので、袋町と呼ばれました。この袋町から元荒川にかけては、今でも御殿という地名が残されています。それは徳川家康が、今からおよそ三八〇年前の慶長(けいちょう)九年(一六〇四)に、将軍家の別荘(べっそう)である越ヶ谷御殿を建(た)てた所だからです。

もとこの地域は、越ヶ谷郷の土豪会田出羽家の屋敷地の一部であった所で、ここには頭塚(こうべづか)とか、馬洗場(うまあらいば)とか呼ばれた場所がありました。馬洗場とは、元荒川が右に曲(まが)る角(かど)の手前の河原で、もとはここに石畳(いしだたみ)が敷(し)かれていて、会田出羽が馬を洗った場所といわれます。頭塚は、別名頭山(こうべやま)とも、ちょっぴり山ともよばれていましたが、ここは会田出羽が、掟(おきて)に背(そむ)いた家来や住民を手打(てうち)にして、その死骸(しがい)を埋(う)めた場所であったとも伝(つた)えます。

なお関東に入国した家康は、鷹狩(たかが)りのときしばしば会田出羽の屋敷に立ちよっていましたが、この屋敷地がひどく気に入り、元荒川べりの地をゆずりうけて御殿を建てました。家康はこの越ヶ谷御殿をたいそう好(この)み、一年に三度も越ヶ谷を訪れたこともありました。また御殿地を提供(ていきょう)した会田出羽は、家康の御用をよくつとめたとして慶長十三年(一六〇八)には畑一町歩の屋敷地をたまわっています。さらにこの家からは、家康の近習衆(きんじゅうしゅう)にとりたてられた人や、五〇〇石どりの旗本に登用された人がでています。その後、この会田出羽の子孫が文政十年(一八二七)のとき、袋町から越ヶ谷久伊豆神社に通じる道を寄進(きしん)しましたが、それからこの道を、新しい道、すなわち新道(しんみち)と呼ぶようになりました。

また、耕地(こうち)にもそれぞれ名まえがつけられていますが、越ヶ谷のなかには、一番・二番・三番という番号がつけられた耕地があります。これは検地(江戸時代の土地の丈量(じょうりょう)調べ)のとき、はじめに検査(けんさ)した順から一番二番とつけられたといいます。また大作耕地という所がありますが、これは広い大きな耕地、柳田とはこの辺りを流れる堀にそって柳の木が植(う)えられていたことから、井戸田は水の深い田んぼだったことから、また谷古方(やこがた)とは低い地のなかでもいくらか高い所で野原になっていたことから名付けられたようです。この野原を切り開いて人びとが住みついた所を谷古宇(やこう)と呼びますが、草加市には谷古宇という名の、古くからの集落(しゅうらく)があります。

このほか堀の名では、赤山街道(県道越谷鳩ヶ谷線)を鳩ヶ谷に向かってゆく途中に出羽堀という堀があります。この堀はその昔、会田出羽が、出羽地区の湿地(しっち)を干拓(かんたく)するために掘り割った堀でしたので、出羽の名をとってつけられた名といわれます。また、越ヶ谷には根井堀・大作堀・柳落(おと)し・六本木落し・浅間下落し・町裏落し・曲池(まがりいけ)落しなどたくさんの用排(ようはい)水路があって、それぞれに名まえがつけられていました。これらの堀割(ほりわり)は、今では目だたない存在(そんざい)ですが、当時は農作業や日常(にちじょう)の生活上、大切な役目を果(は)たしていたのです。

なお観音横町から元荒川に落(お)とされる六本木落しの堀口を、六本木と呼んでいます。おそらくここに六本の大木があったことから名付けられた地名でしょう。その昔ここはたいへん寂(さび)しい場所で柳原(現在の柳町)の河原に続いていた所です。江戸時代ここが所仕置場(ところしおきば)(その土地で処刑(しょけい)する場所)になっていました。元文四年(一七三九)という年に、他人の家に火付けしたため、越ヶ谷町の大火を招(まね)いた髪結(かみゆい)(今のとこやさん)長右衛門が、ここで火あぶりの刑に処(しょ)せられています。昔は火つけの罰がたいへん重(おも)かったことがわかります。

(注)このほか越ヶ谷には弥生町や柳町、宮前(通称(つうしょう))などの地名がありますが、これらは新しい町名です。

北条氏の虎の印判状
現在の観音横町
昭和50年ごろの出羽堀
大沢浅間神社(いまはありません)32頁参照