大沢地区

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大沢町

大沢は、元荒川(荒川)の東方(とうほう)にあたり、古くは下総国下河辺庄(しもかわべしょう)新方郷(庄)のなかにふくまれていました。その後、新方郷は武蔵国に編入されましたので新武蔵とも呼ばれました。一説には長禄(ちょうろく)年間(一四五七~六〇)太田道灌(どうかん)が岩槻を支配したころ武蔵国に編入したともいわれます。江戸時代は、武蔵国埼玉郡新方領のなかにありました。そして慶長七年(一六〇二)の、宿駅制度(しゅくえきせいど)のとき、街道筋を中心として、ここに宿場(しゅくば)町がつくられました。はじめは越ヶ谷宿の助け合い宿でしたが、のちには大沢町の行政組織(そしき)のうち、交通業務は越ヶ谷町と合体したので、大沢町をふくめて越ヶ谷宿と呼ばれました。それでふつうは、越ヶ谷宿のうち大沢町、越ヶ谷宿のうち越ヶ谷町と、つかい分けられました。でも、行政的には両町とも独立した町であったのは変わりありません。

その後、明治になり、宿駅制度がなくなりましたので、両町は完全に分離しましたが、明治二十二年の町村合併のとき、大沢町は越ヶ谷町と組合町をつくりました。でも明治三十五年に再び分離しましたが、昭和二十九年十一月、越ヶ谷町はじめ八か村と合体(がったい)し越谷町を構成(こうせい)しました。

大沢の地名

ところで大沢という地名は、もとこの辺りは一面の沼沢(しょうたく)地(しめった土地)で、ことに大小一七か所の池や沼があったので、大きな沢、つまり大沢と呼ばれたといいます。また一説には、今からおよそ九五〇年前の長元七年(一〇三四)という年に、大沢の住人深野源三郎という人が富士山に登山しました。そのとき大沢の滝(たき)から、影向(えいこう)石という石を持ちかえって浅間神社をお祀(まつ)りしたので、この地を大沢といったといわれます。町の中は上宿(かみじゅく)・中宿・下宿と区分されましたが、この上・中・下は江戸を中心としたものでなく、日光からみて上中下としたといわれます。

また大沢には鷺後(さぎしろ)・高畑(たかばたけ)・鷲越(わしこし)などという所があります。このうち鷺後は、鷺後用水路(逆川)にそった林の茂(しげ)る古い集落(しゅうらく)で、鷺が群(む)れをなして集まったことから、はじめ鷺代(さぎしろ)と呼びましたが、のち鷺後と書かれるようになったといいます。高畑は、野田街道(県道越谷野田線)にそった畑地で、大沢のなかではいくらか高い地所であることから名付けられたものです。ここも古いころは大きな集落でしたが、大沢町が新しくできたとき、高畑の住民も鷺後の人びとと一しょに大沢町に移動しました。このため高畑の屋敷地は畑地に開発されたので、新田耕地とも呼ばれました。

現在の大沢の鎮守(ちんじゅ)香取神社は、大沢の元村である鷺後に祀られていた香取神社を移したものといわれます。また鷲越は死んだ馬を捨(す)てる場所でしたが、その死馬を餌(えさ)に筑波(つくば)山から鷲が飛んできましたので、はじめは鷲代(わししろ)と呼びました。その後どうしたことか鷲越というようになったといいます。

また耕地名には新田耕地・外河原耕地・皿沼(さらぬま)耕地など数多くの耕地名がありました。このうち飯御免(いいごめん)耕地という所があります。それはここでとれた米を大沢の鎮守香取神社にお供(そな)えしたので、はじめ「飯御供免(いいおそなえめん)耕地」と呼びましたが、御供をはずして飯御免と呼んだといいます。また稲荷前(とうかまえ)耕地という所がありますが、ここは高畑の稲荷(いなり)神社前の耕地をさしました。当時土地の人は稲荷を「とうか」と呼んでいたからです。このあたりはとくに寂(さび)しい所で、古狐(きつね)がよく往来(おうらい)する人をだましたので、人びとはここを「とうかまえ」と呼んで恐(おそ)れていたといいます。また大沢のはずれ、花田との境(さかい)に古川新田と呼ばれた所があります。この古川はもと、荒川(元荒川)が越ヶ谷から花田を迂廻(うかい)して、小林(現東越谷)に流れていたときの川の跡です。寛永年間(一六二四~四四)天嶽寺(てんがくじ)前に新川が掘られてから古川になりましたが、この古川は新田に開発されました。このほか弥十郎に近いところに、槐戸(さいかちど)耕地と呼ばれた所があります。一説(せつ)には、ここに槐(さいかち)の木があったので、槐戸と呼ばれたといいますが、戸とは水辺をさしたといいます。つまりこのあたりは、とくに深い沼や池が多かった場所で、そこに槐の木があったので槐戸と呼んだのでしょう。

沼といえば、古い昔は不明ですが、大沢には一二の池があったそうです。このうち五つの池が元禄(げんろく)年間(一六八八~一七〇四)埋(う)めたてられて新田となり、それからは大沢の七つ池と呼ばれました。この池は内池・外池・浅間池・八郎兵衛池・嘉右衛門池・観音坊池・しじめ池の七つです。このうち、内池は大沢町の名主(なぬし)(今の町長)江沢家の屋敷内にあったから、外池はその外がわにあったから、浅間池や観音坊池は、そのそばに浅間神社や観音堂があったから、しじめ池はしじみ貝のように小さな池であったから、そして八郎兵衛池や嘉右衛門池は、池の持主の名をとって名付けられたものといわれます。これらの池はすべて埋めたてられて今はありません。

このほか堀の名には「ねねっこ」と呼ばれた堀がありました。これは堀を掘ったとき、木の根がたくさんでてきたので「根ねっこ」と称(しょう)したといいます。一説にはこの土地の人びとは幼児のことを「ねねっこ」と呼びました。そしてあるとき幼児がこの堀に落ちて死んだのを悲しみ、人びとは「ねねっこ堀」と呼んで供養(くよう)したといわれます。また道の名では「横し込」と呼んだ所がありました。これは日光街道と野田街道の分かれ道のあたりをこう呼んだのです。野田街道は日光街道に対しては横道にあたっていたから、横道に入りこんだ所、つまり横し込みと呼んだのでしょう。なお野田街道は、古いころは「さしま街道」とも呼ばれ、下総(しもうさ)や常陸(ひたち)に通(つう)じる本道でした。

高畑の稲荷神社