新方庄
桜井地区は明治二十二年平方・大泊(おおどまり)・上間久里・下間久里・大里の五か村が合併してできた旧村で、現在桜井地区と呼ばれています。合併のとき桜井村と名付けられたのは、昔この地域は河辺庄(かわべのしょう)桜井郷と呼ばれていたときがあったからだといいます。また桜井地区は増林地区や新方地区、大袋地区、それに春日部市武里地区や豊春地区、岩槻市川通り地区などを含(ふく)めて、その昔新方庄(にいがたしょう)(郷とも)と呼ばれていました。これらの地は、粕壁(かすかべ)から西方(せいほう)に曲流した古隅田川(古いころの利根川主流)を境に、その下方は元荒川と古利根川にはさまれた広い地域です。ここはもと下総国に属(ぞく)していましたが、今から五〇〇年ほど前、太田道灌が岩槻を支配していたころ武蔵国に編入(へんにゅう)されたので新らしい方、つまり新方という地名がつけられたという説があります。しかし新方の地名は、今からおよそ六五〇年以前から金沢称名寺(しょうみょうじ)の記録(きろく)などに出てきますので、おそらく新しい干潟(ひがた)、新しい陸地、つまり新潟(にいがた)ということから名付けられたとみられます。
平方と大泊
平方は、越谷市のうちもっとも東北端に位置しています。その形はちょうど地図のうえからは三角形の形になっています。すなわち東の方が古利根川、西の方は平方の林西寺あたりを頂点として、会野川と呼ばれた古いころの河道(かどう)が山形に南に下がり、その南端から底辺(ていへん)状に東に向かって古利根川へ、三角の形で続いています。この会野川という名は、二つの流れが合わさっていることから名付けられたともいいます。
そしてこの川によってくぎられた三角形の地は、川によって運(はこ)ばれてきた土砂によって陸化が進んだ所で、もとは一面の平らな畑地でした。平方という地名は、比較的(ひかくてき)高い平らな土地ということから名付けられたようです。この平方の地には、会(あい)の久保(くぼ)・戸崎前・刈久保・山谷前・ヤダレなどの小名があります。久保とはくぼんだ所、戸崎は川につき出た所とみられています。この平方には子育て呑龍(どんりゅう)として有名な高僧、呑龍上人(しょうにん)が長い期間(きかん)住職を勤(つと)めていた浄土宗(じょうどしゅう)の林西寺、平方の鎮守(ちんじゅ)である浅間神社、古い歴史をもった女帝(にょてい)神社などがあります。
この平方の南端、会野川の川跡(あと)を境に、その隣(となり)は大泊(おおどまり)の地となります。大泊の地名は、浄土宗安国寺の寺伝(じでん)によりますと、紀伊国(三重県)熊野大泊村の安国寺の住職であった、誠誉専故(せいよせんこ)という僧が、今からおよそ六〇〇余年前の康安(こうあん)元年(一三六一)に、この地を通りかかり、安国寺を再建して住職になりました。そしてこの僧の故郷である大泊の地名を、この地の地名にしたと伝(つた)えます。
なお安国寺は足利尊氏(あしかがたかうじ)が、貞和元年(一三四五)のころ、全国六六か国に国家の祈願寺(きがんじ)である安国寺を指定(してい)しましたが、大泊の安国寺がその一つであるとも伝えます。このほか安国寺は、もと蓮生坊(れんしょうぼう)と称した、熊谷直実(くまがいなおざね)の草庵(そうあん)であったともいわれますが、くわしいことは不明です。
また、大泊の地名については、一説によると、当地域はもとの利根川の一流路であった会野川に面していて、自然堤防がたいへん発達している所です。そして泊(とまり)とは、川や海にそって設けられた港(みなと)という意味があるといわれますので、ここはもとの利根川にそった、港の一つであったとも考えられます。ここの耕地には、根田・塚田・堰場(せきば)・雉子田(きじた)などの名がつけられています。これらの耕地名も現地をよく調(しら)べてみる必要があるでしょう。
間久里と大里
間久里は、江戸時代から上(かみ)と下(しも)の二村に分けられましたが、もとは一つの村であったといいます。間久里の地名は人家のある里(さと)まで遠い所ということで、条里制の遺名ともみられていますが、今のところ何ともいえません。また間久里を蒔里(まくり)と書いた史料もありますが、一説には農作業などを共同で行う所、つまり「ユイ」からおこった地名ともいわれています。このほか間久里はまこもの生(お)い茂(しげ)った里(村)、つまり「まこ里(り)」といわれたのが「まくり」になったとも考えられています。でもはっきりしたことはわかりません。
ここはもと、大袋地区の大竹あたりから曲流した元荒川が間久里・大里を通って大林に流れていました。そしてこの川にそって日光街道がつけられたので、旧道を中心に集落をつくっていた上間久里の人びとのなかには、日光街道ぞいに住居を移し、旅人を相手としたお茶屋を開きました。はじめ八軒のお茶屋が店を開いていたので、八軒茶屋と呼びました。この八軒のお茶屋のうち三軒が、元荒川からとれたうなぎの料理を食べさせましたが、このうなぎは、たいへんおいしく「間久里のうなぎ」と呼ばれ評判(ひょうばん)になっていました。
その後、今からおよそ二八〇年ほど前の宝永(ほうえい)三年(一七〇六)という年に、大竹から大林にじかに通(つう)じる元荒川の新川が掘られました。このため、間久里を流れる元荒川は古川となり、新田に開発されました。それでもうなぎは「いけす」などに飼(か)われ、うなぎ料理は江戸時代を通じて旅人に喜ばれていました。なお上間久里は、越ヶ谷宿(じゅく)と粕壁(かすかべ)宿の中ほどの地にあたり、旅人が一休(ひとやす)みするのにつごうがよいように茶店が設けられました。このような所を「立場(たてば)」といいます。
上間久里の耕地には八段田(はったんだ)・堤(てい)外・古川新田・鯛(たい)の島・北浦、下間久里には深田・土浮(どぶ)・四斗蒔(よんとまき)・鯛の島などの名がつけられていました。土浮(どぶ)とか深田は、水が深く土がやわらかで足がもぐるような所、鯛の島は、鯛の形をした耕地(こうち)、八段田は、八反歩の耕地、四斗蒔は、四斗ほどの種子(たね)をまく広さの耕地、古川新田は古川が新田に開発されたことから名付けられたようです。なお下間久里の香取神社では県の民俗文化財である獅子舞(ししまい)が行われていますが、これは古くからのしきたり通りに行われているものとして有名です。
また大里の名は、大きな里(村)といわれ、間久里と同じく条里制の遺名ともみられていますが、くわしいことは不明です。