新方地区

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新方村と船渡・大松・大杉

新方村は明治二十二年四月、大吉・向畑・北川崎・大杉・大松・弥十郎・船渡の七か村が合併(がっぺい)してできた村です。新方村の地名はこの地域が古いころは新方庄、江戸時代は新方領と呼ばれていたことから名付けられたものですが、この地域はとくに東新方庄ともよばれていました。現在この旧村は新方地区といいます。

この新方地区のうち船渡は、古利根川にそった地で、古くから船の渡し場があったことから名付けられた地名とみられています。ここの耕地には大島・大島前・島添(しまぞい)など島がついた名が多くみられますので、古いころはこの地が水によって囲(かこ)まれた島状の地であったかも知れません。でも島の「シマ」は耕地そのものをさすこともあるといわれますので、大島は大きな耕地(シマ)、島添は耕地にそった地と解されます。このほか上川原・下川原など川にちなんだ耕地名もみられます。

また大松の地名は、松の木が茂っていたことから名付けられたとみられています。耕地には川端・深石・小谷島などの名がつけられています。ここには古いころ、六か村を領有(りょうゆう)していたといわれる、六か村栄広山清浄院(しょうじょういん)という浄土宗の古い寺院があります。ここは古利根川にそった自然堤防の発達した所で、境内には開山塚をはじめ、新方庄を支配(しはい)していたといわれる新方氏のいい伝えなどが残されていて、伝説の多い寺院です。

大杉は、杉の木が茂っていたことから名付けられたようですがはっきりしません。耕地には堰戸(せきど)・深石・渋田(しぶた)・表沼などの名がつけられています。このうち堰戸は、ここに水をためる堰が設(もう)けられていたから、渋田は鉄分の多い田から、深石は深い砂地から、すなわち石を「イサ」といい、砂をさすといわれますので、深い石と名付けられたとみられています。

弥十郎・向畑・北川崎・大吉

弥十郎は、江戸時代のはじめ大房村の住民弥十郎が新田に開発した地なので、弥十郎と名付けられました。はじめは、沼谷(ぬまや)新田とも呼ばれたようです。もと沼沢(しょうたく)地であっただけに、表沼・裏沼など沼にちなんだ名が多くみられます。

向畑(むこうばたけ)はもと大吉・川崎・大杉・大松・船渡の五か村が、それぞれこの地を所有していたことから向(む)かいの畑、つまり向畑と呼ばれたといいます。これが向畑村として独立したのは元禄年間といいますが、大松村清浄院に伝わる寛永四年(一六二七)の寺領検地帳には、向畑村と記されていますので古くからの村であったのはたしかです。ここには向畑の陣屋(じんや)といって、もと新方庄の支配(しはい)者であった新方氏の城があった所と伝えられています。いまは陣屋の跡(あと)であった山がくずされて畑地になっていますので、陣屋当時の面影はみられません。

北川崎はもと川崎村といいましたが、明治十二年、郡制(ぐんせい)がしかれたとき、同じ郡内に同じ村名の村があるのはまぎらわしいとの理由から、その村名の頭に北や南がつけられたのです。ところで川崎は、川や海につき出たところをいうようですが、越谷の川崎は古利根川の屈曲したところから名付けられたようです。ここも川べりの地だけに川端などの耕地名がみられますが、このほか宮脇・太手面(ふとてめん)・堰戸などの小名があります。

大吉はもと大芦(おおよし)とも書かれ、芦の茂った地からつけられた名のようです。小名(こな)には鷺代(さぎしろ)・圦前(いりまえ)・根通(ねどおり)などがあります。このうち圦前は大吉地先から鷺後(さぎしろ)用水路(葛西用水)が引かれています。この用水の圦元(いりもと)にあたっていたから圦前といわれたのでしょう。なお新方地区の西方を流れる川は現在新方川と称(しょう)されていますが、もとは千問堀(せんげんぼり)と呼ばれていました。堀の長さが千間あったことから名付けられたものでなく、長い堀を千という数で表現(ひょうげん)したようです。

向畑の陣屋跡
増森薬師堂の道しるべ(次頁参照)