大袋地区

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大袋村

大袋村は、明治二十二年四月恩間(おんま)・大竹・大道・三野宮・大林・大房・袋山それに恩間新田村の八か村が合併してできた旧村です。この村名は大竹・大道・大林などの「大」と袋山の「袋」を重(かさ)ねたものです。このうち恩間新田は、江戸時代は恩間村のなかにふくまれていましたが、明治四年に恩間村から分離(ぶんり)して独立した村です。また袋山は、もと荻島と地続きの地で元荒川の西岸に位置(いち)し、武蔵国埼玉郡越ヶ谷領のなかの一村でした。ところが宝永三年(一七〇六)という年に、大竹地先から荻島を分断してつくられた新川が掘られたため、元荒川の東岸に位置するようになりました。でも江戸時代は、やはり越ヶ谷領のうちでした。その他恩間村などは、古くから元荒川の東岸の地で、昔は下総国葛飾郡新方庄でしたが、途中(とちゅう)から武蔵国埼玉郡に入った所です。このほか、元荒川のつけかえで、荻島村の一部が川の東岸になった所があります。この新川によって荻島から孤立(こりつ)した集落は、〆切(しめき)りの地とも呼ばれました。本村との交通上新川にかけられた橋も〆切り橋と呼ばれています。〆切りとは川のつけかえで、もと流れていた川筋が〆切られたという意味です。

袋山と恩間

袋山は前にのべましたように、宝永三年の元荒川のつけかえによって、大袋の他の村々と地続きになった所です。袋山の地名は、元荒川が袋のような形でこの地を囲(かこ)むように流れていたことと、この地に積(つ)み重(かさ)ねられた川砂が山のように高くなっていたことから、袋の山と呼ばれました。この袋山は、新田に開発された元荒川の古川を除(のぞ)いては、すべて畑地(はたち)で、最近までは桃や梅の産地(さんち)として知られていました。ここには三田方・根通・堤通・根河原などの小名がありますが、それぞれいわれある地名でしょう。

恩間(おんま)は、もと袋山とは元荒川をへだてた対岸の地でしたが、今は地続きの地です。恩間は古くは「忍間(おしま)」とも書かれ「おま」とも呼ばれていました。この地名は、荒川(元荒川)が押(お)し廻(まわ)している地ということで「おしま」といわれましたが、いつか「おんま」と呼ぶようになりました。この地は古くから開けた地で、鎌倉(かまくら)時代の金沢称名寺文書(かなざわしょうみょうじもんじよ)のなかに「新方のうちおま」の名がみられます。

この地には、江戸時代の国学者渡辺荒陽(わたなべこうよう)や、村田春海(はるみ)の養女(ようじょ)になった歌人の村田多勢子(たせこ)などが出ている旧家渡辺家があります。恩間新田は、この渡辺家の先祖が開発した地といわれています。小名では恩間に荒久(あらく)・天神下・追(おい)堀・外和戸(そとわど)など、恩間新田には蓮河原(はすかはら)・治郎右衛門(じろううえもん)などの名がみられます。このうち外和戸の「ワド」は谷間のこととも解(かい)されていますので、外がわにある低い所ともみられます。荒久(あらく)は新久とも書かれ、新開地をさしたといわれます。蓮河原とは、おそらく河原にある蓮の田ということから、治郎右衛門は、その地の開発者、ということでそれぞれ名付けられたものでしょう。また恩間は江戸時代岩槻藩(はん)に属(ぞく)していましたが、この村の中ほどに天神池と呼ばれる八反歩(約八〇アール)ほどの池があり、毎年領主からこの池の魚をとることを命(めい)じられていたといわれます。この池も今は埋(う)めたてられてその面影を残していません。

大房と大林

大房(おおふさ)(現在の北越谷)や大林は、元荒川が曲流するあたりに位置している地で、袋山などとともに自然堤防のよく発達した地域(ちいき)です。その多くが畑地でしたが、とくに桃や梅の名所として有名なところで、二代目安藤広重(ひろしげ)の絵にも描(えが)かれています。このうち大房の真言宗浄光(じょうこう)寺の境内には、古梅園(こばいえん)という観光(かんこう)のための庭園(ていえん)が設(もう)けられていました。昭和十一年には、俳人の高浜虚子がここに来て俳句(はいく)をよんでいます。今の大房は区画整理(くかくせいり)が行われ、その名も北越谷と改められて住宅地になっています。浄光寺を除いては、梅や桃はすっかりなくなりましたが、元荒川堤には桜が植(う)えられ、桜の名所になっています。

ところで大房の地名ですが、大房の「フサ」は笹(ささ)とか萱(かや)がたくさん生えている場所をさすといわれますので、古いころこの地には笹や萱がふさふさとおい茂っていたのかもしれません。この大房の北端(ほくたん)大林との境に、大同二年(八〇七)というたいへん古いころに建てられたと伝(つた)える薬師堂(やくしどう)があります。この薬師堂は古くから「鵜(う)の森の薬師さま」とか「大江りの薬師さま」、あるいは「押入りの薬師さま」とも呼ばれていました。おそらくこの辺(あた)りはその昔、海辺の岸であったので「大江り」、あるいは海に押し出した所から「押入り」とよばれたとみられます、そしてここに松や杉などの大木が茂っていて、鵜の鳥などの恰好(かっこう)な生息地であったことから「鵜の森」ともいわれたのでしょう。

この地は他(ほか)の地と比較(ひかく)して、ことに自然堤防の発達した所で、今でも砂山が薬師堂から大林の地にかけてつらなっているのがわかります。ここには下川戸・海道内・沼田・沼向などの小名がみられます。海道内はもちろん日光街道がそこを通っていたことからつけられた名です。

大林の地名は、はっきりしたことはわかりませんが、大房の「鵜の森」に続く地で林がつらなっていたことから名付けられたものでしょう。事実ここには、今でも松の木などの樹(じゅ)木が自然のままにおい茂っている所があり、大林といわれた古いころの面影をとどめています。でもここは実は、明治四十一年に開設(かいせつ)した宮内省(くないしょう)(現在宮内庁)の埼玉鴨場で、宮中(きゅうちゅう)や外国高官のための遊猟場(ゆうりょうば)に使われてきました。なお、埼玉鴨場のはずれには今でも桃山と呼ばれて、桃の林がつらなっている所があり、花の季節(きせつ)には見事なながめをみせます。小名には海道西・海道東といった名がありますが、これは日光街道を中心にその西の方、東の方ということでしょう。

大竹・大道・三野宮

大竹・大道・三野宮は、同じく元荒川にそった村々で、江戸時代は岩槻藩に属していました。このうち大竹の地名は、おそらくもうそう竹(ちく)のような大竹が茂っていたことから名付けられたものでしょう。ここには川久保(くぼ)・中久保・二階(にかい)・東畑・辰堀・堀内(ほりうち)・西浦などの小名があります。このうち久保はくぼ地をさしますので、川久保は川ぞいのくぼ地、中久保は村の中程にあたるくぼ地ということでしょう。二階は珍しい地名ですが、二階の「カイ」は川や山にそった「ハザマ」という意味だそうですので、これは元荒川の堤にはさまれた二つの低地ということのようです。また堀内は、古い時代構堀(かまえぼり)といって堀をめぐらせた豪族(ごうぞく)などの屋敷内を、堀の内と呼びましたので、昔ここに豪族が住んでいたとも考えられます。

大竹の隣は大道です。この大道の地名はよくわかりません。あるいは古いころりっぱな街道がここを通っていたことから名付けられたのかもしれません。ここには上手(うわて)・丈(たけ)・代官免(だいかんめん)・訳田(わけた)・建谷(たてや)などの小名があります。これらも今後よく調べてみる必要があるでしょう。

三野宮の地名もはっきりしませんが、古い時代武蔵国とか下総国とかいった国の、国司(こくじ)(長官)に任命(にんめい)された人は、まず主(おも)な神社に参拝するしきたりでした。この国司が参拝する順序で一の宮・二の宮と呼ばれましたが、ここには国司が参拝するような大きな神社はみあたりません。一説によると元仁元年(一二二四)源頼朝(みなもとよりとも)の妻(つま)の政子が、ここに稲荷山(いなりさん)一乗院という寺を建てたと伝えます。その後、応永十一年(一四〇四)という年に、時の将軍足利義満(あしかがよしみつ)の三男である三の宮がなくなりました。そのとき三の宮稲荷大明神をここにまつったことから、この地を三の宮と呼んだといいます。でもはっきりしたことはわかりません。

なお、一乗院には、徳川家康の別荘であった神奈川御殿の建具の一部が使われています。この建具類は四〇〇年前の古いものですので、貴重(きちょう)な文化財といえましょう。またこの地からは日本一の力持(ちからも)ちといわれた三の宮卯之助(うのすけ)という人がでています。小名には下道・中道・上道という道にちなんだもののほか、上谷(うわや)・中谷・下谷・御手作(みてさく)などといった小名があります。

〆切橋
大房の薬師堂
三野宮一乗院