出羽地区

56~60/204ページ

原本の該当ページを見る

出羽村

出羽村は明治二十二年四月、大間野・七左衛門・越巻・谷中・神明下・四町野の六か村が合併してできた村です。この村名は、その昔越ヶ谷郷の豪族(ごうぞく)会田出羽が、当時一面の沼沢(しょうたく)地であった綾瀬川べりの地を開発するため、排水のための堀を掘りました。人びとはこの堀を出羽堀と呼びました。そして出羽堀を掘ってこの地域の開発のもといをつくった会田出羽をたたえ、その名をとって出羽村としたものです。

江戸時代は、武蔵国埼玉郡越ヶ谷領のなかに含まれていました。このうち早くからひらけていた元荒川べりの四町野や神明下を除いては、元和から寛永年間(一六一五~四四)にかけて、神明下村の地方(じかた)代官(だいかん)会田七左衛門政重(まさしげ)によって開発された所です。当時は槐戸(さいかちど)新田、あるいは七左新田と呼ばれていましたが、元禄八年(一六九五)という年に、谷中・越巻・七左衛門・大間野の四か村に分けられました。槐戸という地名は、槐の木が自生している川のほとりの地ということからつけられたものでしょう。なお、この地の開発者会田七左衛門政重は、会田出羽の養子といわれ、成長(せいちょう)ののち神明下村に分家しましたが、関東代官伊奈半十郎忠治(ただはる)の家臣としてたいへん活躍(かつやく)した人です。

四町野・神明下・谷中

四町野の地名は、条里制(じょうりせい)の遺名(いめい)ともいわれますが、また四町歩ほどの耕地であったからともいいます。でも古くから開けていた土地であるのは確(たし)かです。越ヶ谷の久伊豆神社や、越ヶ谷中町の浅間神社なども、もとは四町野の中にあったものです。それで越ヶ谷の町が新しくできた後も、久伊豆神社や浅間神社は四町野村の領分(りょうぶん)でした。また、越ヶ谷本町の市神(市場の神様)神明社も、江戸時代のはじめ四町野の神明社を移したものといわれます。ここには押切(おしきり)・御縄先(おなわさき)・野尻(のじり)・中西・長堀・神明(しんめい)・根通・上大作などの小名がみられます。このうち御縄先の御縄とは、検地(けんち)(土地の検査)のことをさしたもので、縄先とははじめに検地をうけた場所です。また押切は、元荒川の堤防が大水で切れたところをいいました。神明は、もちろんそこに神明社があったことからつけられた地名です。

神明下は、神明社がまつられているその下の地ということから名付けられた村名といわれます。ここには沖谷(おきや)・松葉(まつば)・前方(まえかた)・後方(うしろかた)・寅発(とらはつ)・土浮(どぶ)・高田・仲田・神明などのほか、在家(ざいけ)などという古い小名もみられます。このうち沖谷のオキは広びろとしたこと、「ヤ」は低い所をさすので、広々とした田んぼということでしょう。寅発は寅の年に開発された所、土浮(どぶ)は水の深い田んぼ、高田は比較的高い所の田んぼとみてよいでしょう。また、在家(ざいけ)は古いころ、ここに人家があったことからつけられた地名です。なおこの地には、槐戸(さいかちど)新田の開発者会田七左衛門家の屋敷があります。その家のかたわらにに会田七左衛門家代々の墓所(はかしょ)もあります。

谷中は元禄八年(一六九五)のとき、四町野村から分村した村です。ここも会田七左衛門政重による開発地です。このなかに三津(みつ)新田という耕地があります。ここはもと越ヶ谷町の新田地でした。今は三谷(みつや)と呼ばれています。三津は三方に水路があったからつけられた小名でしょう。このほか、中西・寅沖・大作などの小名があります。このうち寅沖の「オキ」はこの場合、起(おき)の当(あて)字

で、寅の年に開発された所とみられます。

七左衛門・越巻・大間野

七左衛門(現七左町)は、この地の開発者会田七左衛門政重の名をとってつけられた村名です。この地の開発者会田七左衛門は、七左衛門村に真言宗の観照(かんしょう)院や武主(ぶしゅ)大明神社を建てたほか、越巻村(現新川町)に真言宗の満蔵(まんぞう)院、神明下村に真言宗政重院などを建てています。さて七左衛門には上・中・下・四ツ谷・根郷(ねごう)・前谷・屋敷(やしき)前・屋敷裏・屋敷内などという小名があります。このうち根郷の「ネ」は川や山のふもとをさすともいわれますが、この場合はその根(元)になった郷(里)とみてよいでしょう。また屋敷前とか屋敷裏という小名は特定(とくてい)の人の屋敷を中心とした呼び方です。ここはもと、この地域を開発するとき設(もう)けられた陣屋(じんや)(役所の出張所)のあった所とみられますが、のちに名主の屋敷地になったので、屋敷と呼ばれたのでしょう。この屋敷地は観照院の後(うし)ろにあたる所ですが、最近まで、そこに陣屋の面影(おもかげ)をとどめた大きな長屋門がありました。また、七左衛門はもと沼沢地(しょうたくち)であっただけに内沼・細沼・外沼・前沼・大沼など沼にちなんだ小名が多くみられます。

七左衛門の西隣が綾瀬川に面した越巻(現新川町)の地です。地名は、越巻の「コシ」が山などのふもととか、そのそばとかをさし、「マキ」は人家の集(あつ)まった所といわれますので、綾瀬川の対岸、鳩ヶ谷から戸塚(とづか)、大門につらなる台地のふもとの集落(しゅうらく)からつけられた名とみてよいでしょう。現在越巻は、新川町と改名されていますが、それは新川と呼ばれる末田大用水路がここを流れていることで付けられた名です。ここには、丸の内と中新田という集落をさした小名があります。このうち丸の内は丸(山)の内とも解されますので、台地の近くにある集落地とみてよいように思われます。このほか川西・川東・雨足・槐並木などの耕地名があります。川の西・東は、新川を中心としてつけられたものでしょう。

大間野は、これも綾瀬川にそった地です。その地名は、大きな耕地の間にある集落ということからつけられた名かも知れません。ここには川東・川西という小名があります。この川とは大間野を二分した新川(末田大用水路)をさしたものです。このほか、赤山街道筋(すじ)の新川に架せられた橋の下を地元では辰(たつ)の口(くち)と呼んでいます。これは橋の下の新川の川底に、七左衛門地域の用水取水(しゅすい)のためあけられた大きな穴(あな)がありました。伝えではこの穴は地中にいた龍(辰)が、あるときここから天上に昇ったので、その跡は大きな穴(口)になったということから辰の口と呼んだといいます。ほかにも、こうした面白い伝説によって名付けられたものがあるかも知れません。

神明下会田七左衛門家の墓所
新田の開発に建てられた陣屋の長屋門,(いまはありません)
古綾瀬川の河道跡(61頁参照)