大相模村
大相模村は、明治二十二年、西方・東方・見田方・南百(なんど)・別府(べっぷ)・四条(しじょう)・千疋(せんびき)の七か村が合併してできた村です。新村名は古い時代、西方・東方・見田方などの地域が大相模郷と呼ばれていたことから名付けられたものです。この大相模の地名は、西方(現相模町)の大聖寺(だいしょうじ)(大相模の不動尊)の寺伝(じでん)によりますと、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)二年(七五〇)という年に、良弁(ろうべん)という高僧が相模(さがみ)国の大山で、一本の欅(けやき)の木から二体の不動尊を刻(きざ)みました。そのうち元の木でほられた不動尊が、この地に祀(まつ)られたので大の相模と呼ばれるようになったといいます。古いころは、西方村などが武蔵国崎西郡(きさいぐん)(埼玉郡)大相模郷、それに千疋・別府などが崎西郡八条郷のなかにありましたが、江戸時代は武蔵国埼玉郡八条領のなかに属(ぞく)していました。いずれの地も元荒川やその下流中川にそった地域にあたります。
西方・東方・見田方
西方は、大相模郷のうち西の方にあたる地ということで、西方と名付けられたようです。この地には越谷ではもっとも古い創建(そうけん)を伝える大相模の不動尊や、古いころ大きな勢力をもっていたといわれる山王社(現日枝(ひえ)神社)などがあります。またここには三谷(さんや)・藤塚(ふじづか)・田向・西方・堂端・番場(ばんば)・馬場野(ばばの)・屋影(やかげ)・堂面(どうめん)などの小名があります。このうち藤塚という地名は、藤塚の藤が「トウ」からきたものといわれます。そして「トウ」は湿地をあらわすといいますので、湿地の中に塚があったことから藤塚(とうづか)と呼ばれたのかもしれません。また田向(たむかい)は田の向かいにあたる地、堂端はお堂のそばにあたる地、馬場野は馬のけいこ場ということでしょう。この馬場野の近くに番場という地があることから、古いころこの辺りに、土豪(どごう)のような武士が住んでいたことも考えられます。なお三谷(さんや)は山谷とも書かれますが、この地は葛西用水路と八条用水路にはさまれた低い土地で、江戸時代になってから開発された所です。
東方(現大成町ほか)は、大相模郷の東にあたる地から名付けられたとみられます。この地には武蔵七党(しちとう)と呼ばれた、七つの武士団のうち野与(のよ)党に属(ぞく)した大相模次郎能高(よしたか)が住んでいたといわれ、古くから開けていた土地です。ここには茨田(いばらた)・外野・宮田・山谷・流などの小名(こな)があります。このうち山谷は、川柳地区の上(うわ)谷をさしたもので、戦前までは東方村の領分(りょうぶん)であった所です。また茨田の「イバラ」は荒地をさすといわれますので、あまりよくない田んぼ、流(ながれ)は、長いものの意味でその多くは川をさすといわれます。流の地は八条用水にそった地ですので、おそらくこの流は八条用水をさしたもので、流れのほとりの地ということからつけられたものでしょう。
見田方は、「ミタ」というのが本田をさすといわれますので大相模郷のなかでも本田があった方ということから、このように呼ばれたのかもしれません。江戸時代は見田方をはじめ東方・南百(なんど)・別府・四条・千疋(せんびき)・麦塚それに柿ノ木(現草加市)の八か村は忍(おし)(現行田市)藩(はん)領の飛地(とびち)で、柿ノ木領八か村と呼ばれていました。柿ノ木村がこのうちで一番大きな村であったからです。この八か村をとりしまった割役(わりやく)名主(なぬし)は、代々見田方村の宇田家が勤(つと)めていました。今でもこの割役名主であった当時の格式(かくしき)ある面影(おもかげ)は、文化財になっているこの家の長屋門に残されています。
また見田方の地からは、古墳後期(こふんこうき)から古代にかけての集落(しゅうらく)とみられる、古いころの住居跡(じゅうきょせき)が発見されました。したがってこの地域は早くから開(ひら)けていた所であるのがわかります。しかしこのあたりは現在平たんな水田地で、かつてここにたくさんの家が建てられていたとは思われません。でも当時はここに川が流れ、土砂の堆積(たいせき)でほかの場所より高かった所なのです。その後、川の流れがかわったためほかの地のほうが高くなりましたが、それでもここはもと畑地でした。この畑地は、瓦などをつくるのに適(てき)した土であったので、大正期ごろさかんに土をぬきとって工場にはこびました。その跡を水田地にしたといいます。この見田方の地には、内輪(うちわ)・大河原・辻(つじ)・四斗蒔(よんとまき)・土腐(どぶ)・曾根(そね)・飯島(いいじま)などの小名がみられます。このうち土腐は、水の深い田、曾根は砂地の所、辻は十字路の所、内輪は半円形の所、飯島は上の方にあたる川ぞいの耕地ということから起(お)きた名といわれています。
なお、江戸時代のはじめにあたる慶長十九年(一六一四)に、この飯島の地に住んでいた中村平右衛門という人が、二郷半領(にごうはんりょう)のうち江戸川べりの地を開発しました。そしてこの地を、見田方の飯島の名をとって飯島新田(現吉川町)と名付けました。
南百・四条・別府・千疋
南百(なんど)は難渡(なんど)とも書かれ、川を渡るのにむずかしい所ということから、つけられた名ともいわれます。でもなんどの「ド」は川の合流点をさすといわれますので、大相模の南の方の、川の合流した場所ということで、名付けられたともみられます。事実、ここは元荒川と古利根川が合(あ)わさる所で、もとは渡船場であった所です。ここには西(にし)ノ妻(つま)・深田(ふかだ)・苗間戸(なえまど)・曾根・沖などの小名があります。このうち深田は、土浮(どぶ)や土腐(どぶ)と同じく水の深い田のことですが、この深田のなかに「オカメッタ」と呼ばれた田んぼがありました。これはおかめによくにた娘が田植(たうえ)中、頭から泥(どろ)田のなかにもぐりこんで死んだので、そこをおかめったと呼んだといわれます。
また南百から吉川に通(つう)じる中川にかけられた橋は、現在吉川橋と呼ばれていますが、もとは「トクイバシ」と呼ばれていました。これは明治の終わりごろ、吉川の徳井という人が木橋をかけて交通の便をはかったので、この橋の名を「徳井」という人の名をとって付けたものです。当時この橋を渡るときは渡し賃をとったといいます。その後、昭和のはじめごろこの橋を埼玉県が買いとりました。現在の橋は昭和八年にかけかえられたものだそうです。
四条(しじょう)は、一条・二条という条里制の遺名(いめい)ではないかといわれていますが、はっきりしたことはわかりません。ここには北谷・待田(まちだ)・大竹・新田・根郷(ねごう)・長島などの小名(こな)がみられます。このうち長島は細長い耕地、根郷は四条の元になった集落の地、待田は町田といって、一かこいの田から起(お)こった名とみられています。
別府は別符(べっぷ)とも書かれます。古い時代のころ、ときの政府(せいふ)から特別に許しをえて開発された地を別符田と呼びましたが、この別府の地がそれであるかどうかははっきりしません。ここには南谷・北谷・前原・堤外などの小名があります。越谷でももっとも南はずれの千疋(せんびき)は、千匹(せんびき)とも書かれます。「セン」は川(せん)で「ヒキ」は低(ひく)いとも解(かい)され、川にそった低い土地から起(お)こったとみられています。ここには芦田(よしだ)・三枚田(さんまいた)・浮沼・庄権(しょうけん)・堤外・出洲(です)などの小名がみられます。現在、南百・四条・別府・千疋の地は、東町(あずまちょう)何丁目、それに一部は川柳町何丁目と呼ばれ、古い地名は忘れ去られようとしています。でもこれらの地名は、昔を考えるうえで重要なものであるのはいうまでもありません。