年中行事

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民俗

民俗とは、わたしたちの生活上の習慣(しゅうかん)や風習、さまざまな行事などの伝承(でんしょう)をまとめて民俗といっています。これを分(わ)けると住宅・衣服・食物・言語(げんご)・生産(生産と衣食住)、村や町のしきたり、一年間の行事(年中行事)、生(う)まれてから死ぬまでのならわし(人生儀礼(ぎれい))、それに民間信仰(しんこう)・伝説・芸能(げいのう)などに分けられます。すなわちわたしたちが生(う)まれてから死ぬまでに経験(けいけん)していく身近かな風習(ふうしゅう)や行(おこな)いということになります。

こうした民俗は、親から子へ子から孫(まご)へと、古くから伝えられてきたものが根強(ねづよ)く残されていくものです。でも最近はすべての生活様式が全(まった)く変(か)わったため、衣服や食物をはじめ、古くからのならわしも大きな変化をみせています。こうしたとき、だんだん忘(わす)れ去られようとしている長い間にわたる、わたしたち祖先がうけついできた生活様式を、もう一度ふりかえってみるのも、今のわたしたちの生活を考えるうえで必要なことです。それではまず、越谷の人びとが一年を通(つう)じて行(おこ)なってきたさまざまな行事からこれをみていきましょう。

しかしここで注意したいのは、昔は旧暦(きゅうれき)ともいわれ、月の満(み)ち欠(か)けをもとにしてつくられた暦(こよみ)によって、一年の行事日が定められていました。それで今つかわれている新暦(しんれき)といわれる太陽暦にあてはめると、月日に大きなズレができます。すなわち月の暦(こよみ)はおよそ二十八日で一か月となりますので、新しい暦と大きな差がでてきます。そこで旧暦では、二年に一回、同じ月を二度設(もう)けて、これを調節(ちょうせつ)しました。これを閏月(うるうづき)といいます。そしてこの旧暦を新暦にあてますと、旧暦が新暦のおよそ一か月おくれにあたります。明治五年という年に政府は長い間使われてきた旧暦を廃止(はいし)し新暦にするよう命じました。しかし旧暦をもとにして農作業を行なってきた人びとは新暦を用いると困りましたので、新暦の一か月おくれでさまざまな行事を行(おこ)なってきました。たとえば新暦二月一日の月おくれの正月などがそうです。今では、正月や節句(せっく)などは新暦に統一(とういつ)されたようですが、それでもお盆(ぼん)などは、越谷もそうですが一か月おくれでお盆の行事をしている所が多いようです。また同じ神様を祀(まつ)っている神社の祭礼日なども、その土地によっては、旧暦や月おくれ、あるいは新暦によって行なっていますので、その月日が違うというように、まちまちなのが実情(じつじょう)です。でもここではなるべく新暦をもとにして、旧暦とのかかわりをみながら一年の行事をみていくことにします。

一月の行事

一月は、初春(はつはる)とか新春(しんしゅん)とかいって春を迎える月ですが、ふつうお正月と呼んでいます。旧暦では二月のおよそ立春(二月三日ごろ)のころで、本当に初春といった感じのするときにあたります。なお昔の人はこの立春の日から数えて八十八日目を、八十八夜といってはじめて茶の葉をつむ日、立春から数えて二一〇日目を、二百十日(九月一日)といって台風のくる日などと、立春の日をもとにした数(かぞ)え方もしていました。生活のちえともいえますね。

さて暮(く)れのうちにいろいろな準備をして一年の切りかえの日である元旦(がんたん)(一月一日)を迎えるわけです。この日はその家の主人、あるいは若主人が年男(としおとこ)になって、朝早く若水(わかみず)をくみおぞうにをつくります。そしてこのおぞうにをお神酒(みき)といっしょに神棚(かみだな)などにお供(そな)えします。おぞうにの作り方は家によって多少の違(ちが)いがありますが、だいたい切餅に、里芋や大根・小松菜を入れ味噌(みそ)か醤油(しょうゆ)で味つけしたものです。

ところでお正月に訪(おとず)れてくるという年神様は、正月の卯(う)の日卯の時(午前六時)、まで家の中に滞在(たいざい)するといわれますので、卯の日まではぞうにをつくり年神様にお供えしました。卯の日とは暦のうえで定められている十二支(し)の一つで、十二日に一回廻ってきます。ですからその年により卯の日が正月の二日であったり十日であったりさまざまですが、年神様がながく滞在(たいざい)するとそれだけ年神様に食料がたくさん食(た)べられてしまうので、その年は不作(ふさく)だという所もあります(船渡)。やがて卯の日がくると「オカミアガル」(神が上がる)といって年神様が天上に昇る日になります。この日朝早く年神様にお神酒やぞうにを供(そな)え、お茶を出してから雨戸を開き年神を送(おく)りました。そのあと紙につつんだ洗米(あらいごめ)を部落(ぶらく)の神社にお供えする所もありました(船渡)。

今は電車などの乗(の)り物を利用して、遠くの神社やお寺に初参(はつまい)りをしている人が多いようですが、もとはその村の鎮守(ちんじゅ)にお参りするのがふつうでした。なかには村の中にある祠(ほこら)などに祀(まつ)られているすべての神様におまいりしたので、一時間もかかったという所もあります。このとき鏡餅(かがみもち)やおぞうにを供(そな)えてきますが、一月四日には「棚(たな)さがし」と呼び神社への供え物をすべて下げてくるというならわしの所もありました(西方)。また正月のはじめての辰(たつ)の日は「ハツタツ」、あるいは「ミズアゲ」といって、ことし一年間火事のないようにと家の屋根に水をかけましたが、消防(しょうぼう)の演習(えんしゅう)をする所も多かったようです。

仕事はじめは正月の二日です。商家では初荷(はつに)といってこの日から商品を仕入(しい)れ店を開きました。でも越谷の多くの家は、農家でしたので、この日縄(なわ)ないなどのまねごとをするていどだったといいます。また正月には身よりの人たちなどが集まって今でいう新年会をするならわしでした。これを「オオバンブルマイ」と呼んでいます。また正月の七日は「七草」です。この日、年男が神棚(かみだな)に灯明(とうみょう)をともし、その前に「マナイタ」を置いて、「七草なずな唐土(とうど)の鳥が渡らぬうちに、トントントン」ととなえながら、なずなや小松菜・ほうそん草・にんじんなどの春の七草をほうちょうできざみました。そしてこの七草を入れたお粥(かゆ)をつくり、神様にお供えして家族一同でいただきました(増森)。これを七草粥といいますが、なかにはこの七草粥のなかに「フクゼンクズシ」と呼んで、餅を入れる所もありました(船渡)。

正月の十一日は、蔵開(くらひら)きあるいは鍬入れともいう日にあたりますが、この日までは農具に手をつけてはいけないといわれます。この日、家の主人が蔵を開いて鍬(くわ)を出し、「アキ」と呼ばれる「歳徳神(さいとくしん)」が祀(まつ)られている方の田んぼに「オサンゴ」という生米(なまごめ)一升と、するめや酒をもって行きます。そして田んぼの三方に松の枝をさしてするめや酒を供(そな)え、生米をまいてから土に鍬を入れます。このとき「一くわざっくりこ、金の茶釜を掘り出して、二くわ三くわざっくりこ、金銀茶釜を掘り出して今年の満作祈ります」ととなえごとをする所もありました(増森)。この日は、すべての仕事を休み、この年はじめて麦飯をたいて食(た)べるならわしだったようです。

また一月十四日は、米の粉でだんごを作ります。これを「マユダマ」とも「メーダマ」ともいいます。この「マユダマ」を枝をひろげた柳の木にさして、お米の入った米俵や神棚に供えましたが、これを「ケズリバナ」とか「木綿(もめん)花」とか「カラ花」とも呼んでいます。なかにはこの「ケズリバナ」につける「マユダマ」は米の粉でなく、紅白(こうはく)の餅を四角に切ってつける所もありました(砂原)。この行事は、その年の豊作を祈る行事ですが、この日正月を祝(いわ)った松かざりなどをとりはずしました。翌十五日は小正月といい、小豆粥(あずきがゆ)をつくりました。このときに用いる箸(はし)は、「ニワトコ」の枝か柳の枝でつくりました。これを「カイバシ」と呼びました。この「カイバシ」を小豆粥のなかにさして神様に供えました。またこの日は奉公人(ほうこうにん)が「やぶ入り」といって、実家に帰る日でもありました。

ついで一月二十日は、麦や米や豆を一しょにして粉にひき、正月中神様に供えた「よし膳(ぜん)」をかまどでもやして煎(い)りました。これを「二十日コガシ」といいます。この「コガシ」は魔除(まよ)けのため家のまわりにぐるりとまきました。すると蛇が入ってこないと信じられていた所もあります。またこの日は仕事を休み、にしめなどの御馳走(ちそう)や生きた鮒(ふな)などを「エビス」様に供える「エビスコウ」の日でもありました。なかにはこの日「一升マス」にお金を入れ、秋までに一ぱいにして下さい、とお願いする所もありました(大間野など)。

二月の行事

二月の一日は「ジロウノツイタチ」といって仕事を休み、餅をついた家が多かったようです(三野宮など)。また二月の三日か四日は立春(りっしゅん)ともいわれ節分(せつぶん)の翌日にあたります。節分とは冬から春に移るという境をさします。この日とげでおおわれている「ヒイラギ」の葉にイワシの頭をさして門口にさしこみ、煎(い)った大豆を〝福は内、鬼(おに)は外〟ととなえながら家の内外にまきました。悪い鬼を追い出し福の神を入れるという意味です。まいた豆の残りは大事にとっておいて、その年の、初めての雷(かみなり)が鳴ったとき食べると病気よけになるといわれてきました。

ついで二月の八日は「ヨウカ節句(せっく)」といって三野宮や増森では、竹竿(ざお)に「ミケイ」と呼ばれた目ざるをかけて庭先に立てかけました。そしてこの日は「ヒトツメサマ」が来るといって針(はり)を使いませんでしたが、とくに「針供養(くよう)」といって特別な行事をする所もありました。何日になるかわかりませんが、二月に入ってはじめての午(うま)の日を「初午(はつうま)」といって、どこでも盛大にお祭りをするのがふつうでした。新暦ではまだ寒い冬のさなかですが旧暦では春先にあたり、そろそろ農作業にとりかかるという大事なときです。そしてこの初午の行事は、豊作を前もってお祝いするという意味もあったのです。それで初午は農業の神様である稲荷(いなり)のお祭りにもなっていたのです。

この日は、甘酒をつくり油あげや豆腐それに「スミツカリ」などのごちそうを稲荷の神様に供(そな)えました。「スミツカリ」とは酢(す)にひたした大根おろしのなかに節分に使った豆を入れたものです。このとき鎮守の鳥居(とりい)に張(は)ったしめ縄をとりかえる所が多かったようです。なかには大間野のように新川(末田大用水路)にしかけられた養魚(ようぎょ)場の水を汲(く)み出し、そこからとれた鮒(ふな)や鯉(こい)や鰻(うなぎ)を神様に供えたり、その魚でごちそうを作ったりした所もあります。このかいぼりを「ホッコミ」といっていました。また「初午」の早い年は「ヒバヤイ」といって火事が多いといって注意したといいます。

また初午には「ハツウマビシヤ」といってこの日に「オビシヤ」を行う所もありました。このときは甘酒をつくったり、ごちそうをつくったりするのは他と変わりませんが、「ビシヤ」では七歳になった男の子に弓矢をもたせ、カラスなどの絵がかかれている的(まと)をねらって矢を放(はな)たせます。矢が的にあたった場所によってその年が豊作であるか不作であるかをうらなったといいます。こうした「オビシヤ」の行事は「ウブシヤ」とも呼ばれ、各地で行われていますが、その日はそれぞれ違っていて一定していません。たとえば平方では一月十一日、越巻(現新川町)の中新田では二月二十六日といったぐあいです。しかしおそらくオビシヤは古くは初午の行事であったようです。

三月の行事

三月の行事としては、何といっても三月三日の「上巳(じょうし)の節句」があります。これを「ひなの節句(せっく)」とも「桃の節句」とも呼んでいます。これは女の子を祝う節句で、新暦でいうと桃の花の盛(さか)りである四月のはじめにあたります。古くは京都の貴族(きぞく)の間で女の子が「ヒナ」をかざって遊ぶ日であったことから「ひな祭り」ともいわれました。江戸時代は武士(ぶし)や豊(ゆたか)な商家の問にも広(ひろ)まり、この日に「おひなさま」をかざるのが流行しました。

ことに越谷はこの「ひな」をつくる産地(さんち)で、一時はひなを商(あきな)う家が一四軒もありました。そしてここで作られたひなは「越ヶ谷びな」と呼ばれて人気を集め、各地に盛(さか)んに出荷(しゅっか)されました。でも一般(いっぱん)の人びとにはこうした「桃の節句」はあまり縁(えん)がなく、せいぜい紙人形をかざるていどであったようです。本式の「ひな人形」は当時高価(こうか)なものであったからです。それでも明治に入りますと家によっては「ひな人形」をかざり、ひし餅や白酒などを供えてお祝いするようになりました。このうち古くなった「ひな人形」は、小曾川では、鎮守(ちんじゅ)のご神木(しんぼく)のそばに捨てましたが、谷中では「流(なが)し堀」と名付けられた堀に流すならわしだったといいます。

この日のごちそうは、もとは餅米によもぎの草を入れてつくった草餅がふつうで、白酒(しろざけ)をいただくということは、豊かな家に限られていたようです。なお「なまけものの節句ばたらき」といって、節句の日に仕事をする人は、ふだんなまけているからだと悪口をいわれましたが、農業を仕事にした越谷の人びとは、節句だからといって、とくに仕事を休んだりはしなかったようです。

また三月の行事には「彼岸(ひがん)」というものがあります。この彼岸は旧暦も新暦も同じ日で、夜と昼の長さが同じである春分(しゅんぶん)の日を中日(ちゅうにち)として、一週間の間(あいだ)が彼岸となります。この行事は仏教(ぶっきょう)から伝(つた)えられたもので川の向(む)こう岸、つまり教(おし)えによってさとる境地、という意味だそうで、寺院などでは古くから行われていた行事です。江戸時代から一般の人びとにも広がり年中行事の一つになりました。そしてこの「彼岸」にはお墓の掃除(そうじ)をし「ひがんだんご」や「ぼたもち」を仏さまに供(そな)えて、なくなった先祖(せんぞ)の人びとの供養をしました。またこのとき老母(ろうば)などが集まって「ネンブツ」をとなえ家々を廻りましたが、このときの「ネンブツ」を「ヒガンネンブツ」と呼んでいます。

四月の行事

新暦の四月は、旧暦では弥生(やよい)三月といって春も盛(さか)りの季節(きせつ)です。この花の季節である四月の八日は「花まつり」と呼ばれ、お釈迦(しゃか)さまの誕生日(たんじょうび)のお祝い日です。この日は「誕生会(たんじょうえ)」とか「灌仏会(かんぶつえ)」と呼ばれ、毎年盛大なお祭りが行われました。この日、越谷の寺院でも花でかざった小さなお堂をつくり、このなかにお釈迦さまの像(ぞう)を入れて頭から甘茶(あまちゃ)をかけました。参詣(さんけい)の人びとはこの甘茶をいただいて飲(の)みました。この甘茶は病気除(よ)けになったといわれます。

またこの日は薬師仏(やくしぶつ)のお開帳(かいちょう)(厨子(ずし)と呼ばれる仏像を入れた箱の扉(とびら)をあけること)でしたので、多くの人びとが「ネンブツ」をとなえながらお寺を廻って歩いたといいます。ことにこの日は「ヨーカ節句」といい、仕事を休んで遊ぶ日と定められていた所が多かったようで、「遊びじまい」の日ともいわれました。これはこの日を境(さかい)に田畑の仕事がいそがしくなり、休日がとれなくなるからということのようです。このほか八日は「モメンボウ」と呼んで綿(わた)がよくとれるようにと、お願いする行事がありました。もとは越谷地域でも綿を栽培(さいばい)(植えて育てること)していた所が少なくありませんでした。そしてこの日草餅や「アンビン餅」と呼ぶ塩(しお)あん入りの大福(だいふく)餅をつくって、嫁(よめ)や婿(むこ)に行った先の家に届けるならわしの所もありました(増林など)。

ついで四月十日は、「天道(てんとう)念仏」ともいわれる「お姫(ひめ)念仏」がどこでも盛大に行われました。越谷地域では、群馬(ぐんま)県の榛名湖(はるなこ)に入水(にゅうすい)して蛇(へび)になったというお姫さまの物語を、念仏の文句(もんく)におりこんで供養しました。この日、おばあさんを中心とした念仏講(こう)の人びとはお堂などに集まり、榛名山の掛軸(かけじく)をかけて夜明けから日暮れまで休まずに念仏をとなえました。陽(ひ)のあるうちは念仏をとなえるということで、天道念仏と呼びましたが、花田ではこの日の念仏を「ヒョウネンブツ」とも呼んでいました。これは雹(ひょう)が降(ふ)って農作物が不作にならないようにと願うための念仏であったからです。この「雹念仏」は五月の十日にも行われますが、このときはおかげで雹が降らず、作物がよく育ったというお礼の念仏だといいます。

このほか蒲生(がもう)などでは四月十日に、お寺に納(おさ)められている六〇〇巻(かん)の大般若経(だいはんにゃきょう)(お経が書かれている本の一つ)を六ツの箱に分けて入れ、これを若者が棒をさして長持(ながもち)のようにしてかつぎ、部落(村のなかの各集落)中の家々を廻って歩くこともしました。このとき大般若経の箱をかついだ若者は、ふだんつきあいの悪い婿(むこ)さんなどを家のなかからつれ出し、堀のなかに落(お)としたりしたともいわれます。今はこのようなことをすると問題(もんだい)になりますが、もとは部落ごとに共同(きょうどう)で何でも行なっていたので、はやく部落のしきたりになじませる必要があったのでしょう。また小曾川や瓦曾根などでは四月中に「春祈禱(はるきとう)」といい、災害をふせぐための祈願(きがん)行事を行なっていました。このときは村の鎮守(ちんじゅ)に舞台(ぶたい)が設(もう)けられ、「お神楽(かぐら)」や「村芝居(しばい)」が演(えん)じられましたが、境内には出店が立ちならび、たいそうにぎわったといわれます。

五月の行事

五月の行事としては五月五日の「端午(たんご)の節句」があります。男の子の成長を祝う日ですが、戦後は「子供の日」という国民の祝日にあてられています。この端午の節句は「菖蒲(しょうぶ)の節句」とも呼ばれ、「武(ぶ)」を「尚」(とうとぶ)ということから、「尚武(しょうぶ)の節句」として武家(ぶけ)の間で盛んに行われました。この日はよろいやかぶとなどの武具(ぶぐ)とともに菖蒲をかざり、柏(かしわ)の葉でつつんだ餅をつくって男の子の武運(ぶうん)を祈(いの)りました。もっとも菖蒲や柏の葉は六月にならなければ大きくなりません。やはり三月の桃の節句と同じく、これも旧暦五月(新暦では六月)の行事であるのがふさわしいようです。

今でこそ端午の節句は盛んですが、江戸時代の農家では、とくべつにこの日を祝うということはしなかったようです。およそ明治のころから年中行事の一つにとり入れられましたが、今とちがってかんたんにお祝いするだけでした。すなわち多くの家ではこの日の前日、菖蒲の葉とよもぎの葉を屋根にかけたり門口にさしたりしますが、菖蒲やよもぎを入れて風呂(ふろ)をわかす家もありました。なかには菖蒲ではち巻(ま)きをすると頭痛(ずつう)によいといって、菖蒲を頭にまいたり(三野宮など)、「たべ節句」と呼んで仕事は休みませんが、ごちそうを腹一ぱい食べる日だという所(小曾川など)もありました。でもせいぜい柏餅をつくって食べるていどであったようです。ごうかな武者人形をかざり、鯉のぼりを立てるようになったのは戦後のことで、もとは農作業のもっともいそがしいときだったので、節句どころではなかったというのが実情(じつじょう)だったようです。

このほか五月の行事には五月三日に行われる瓦曾根照蓮(しょうれん)院の祈禱会(きとうえ)があります。この日照蓮院では六〇〇巻の大般若経(はんにゃきょう)を虫ぼしを兼ねて蔵から出し、祈禱(きとう)を行いました。このとき世話人がついた餅をお供物(くもつ)として各家に配(くば)ってあるきました。また五月九日は越ヶ谷の久伊豆神社で太々神楽(だいだいかぐら)が行われました。この神楽を舞う人は神明下村の大夫連(だいゆうれん)であったといいます。こうしてみると五月の行事はあんがい少なかったことが知れます。これは麦苅(むぎかり)や田植(たう)えなどをひかえいそがしい季節であったからかもしれません。

六月の行事

越谷地域はもともと水田地帯でしたので、五月の末から六月にかけて、一せいに田植えが行われました。このときは〝猫の手もかりたい〟というほどの忙(いそ)がしさでした。それは田に水を入れる用水のつごうで、「番水(ばんすい)」といって田に水を入れる日がきめられていたので、そのきめられた日のなかで田植えを終(お)わらせなければならなかったからです。このため「ユイ」といって、おたがいに田植えの番にあたった家に集まり、助け合って田植えをするのがふつうでした。

こうした番水の定めがあって、毎日が大切な日であったわけですが、西方などでは卯(う)の日には田植えをしなかったといいます。卯の日は伊勢(いせ)の皇太神宮へお供(そな)えする稲が植えられる日だからということだそうで、おそらく伊勢の神さまに遠慮してのこととみられます。ともかく田植えが終わると「サナブリ」といって手伝いの人たちにごちそうするならわしでした。このとき稲の束(たば)を二束(ふたたば)、荒神(こうじん)さまへお供えする所もあったようです。

また六月に入ると豊作の前祝いである夏祭りがはじまります。まず六月十四・十五日は天王(てんのう)様の祭りです。この日は仕事を休み小麦まんじゅうなどをつくり、よしで作った箸(はし)をそえて天王様に供えました。この天王様を「オシシサマ」と呼び、「あばれ神」だといって、神輿(みこし)を〝わっしょい、わつしょい〟もみながら家々を廻る所もありました。この天王様は本来旧暦六月の行事ですが、なかには月おくれの七月十四日、十五日にこの祭りを行っている所もあります。またこの天王様の日には、上間久里などでは「オコモリ」といい少年たちがふとんや蚊帳(かや)をお堂に持ちこんで一夜を明かしました。このとき親たちは「オコモリ」する子供たちにごちそうを運(はこ)んだといいます。「オコモリ」の行事は九月九日(月おくれでは十月九日)にも行われますが、このときは、とくに「クンチ」と呼びどこでも盛んであったようです。

また六月二十七日は、大相模不動尊(さがみふどうそん)のお祭りで、不動尊の境内には枇杷市(びわいち)が開かれました。ついで六月二十八日(七月十八日の所もあります)は香取神社の祭礼です。神社の氏子(うじこ)たちはこの日の祭礼にそなえ、家々から定められた数量の麦を集め、これを売って祭りの費用にあてる所が多かったようです。これを「麦バツ」と呼んでいます。「バツ」とは「初穂(はつほ)」ということで、はじめにとれた麦をさしますが、秋祭りには「米バツ」といって米を集めて祭礼の費用にあてていました。このとき大泊では「ムシリ魚」という魚の料理をつくり、観音堂で神主(かんぬし)さんと一しょに飲食をともにしました。このとき境内(けいだい)には屋台が設けられ「オワン神楽(かぐら)」という神楽が演(えん)じられたといいます。

次いで六月三十日と七月一日は浅間(せんげん)神社の祭りです。このうち六月三十日は「夜宮(よみや)」ともいわれた宵祭(よいまつ)り、七月一日は山開(びら)きです。この日は、満一歳にならない子に晴衣(はれぎ)を着せてお宮まいりをするならわしでした。これを「ハツヤマノボリ」と呼んでいます。はじめて山にのぼるという儀式(ぎしき)でもあったのです。

また六月の間(あいだ)に、村々では夏祈禱(きとう)(七月に行う所もあります)といって、村のなかの悪魔(あくま)を追(お)いだすために行う行事が盛(さか)んでした。これを「村切り」とか「道切り」と呼びますが、獅子頭(ししがしら)をつけた人を先頭(せんとう)に、笛(ふえ)や太鼓(たいこ)で家々を廻り、終わりに村の境(さかい)で獅子舞(ししまい)をするというものです。このほか「百万遍(ひゃくまんべん)」という行事も盛んでした。これはおおぜいの若者が大きな長い珠数(じゅず)をかつぎ、「ナイダーナイダー」(なむあみだぶつの略称)ととなえながら家々を廻り「オハライ」をして歩くものです。七左衛門(現七左町)ではおはらいの最後に、村の境にあたる赤山街道の新川にかかる橋のたもとで、神主からいただいた「ゴヘイ」を橋のかたわらに納(おさ)めるしきたりでした。これは村の悪魔を他の村にゆずり渡したということで、この橋の名を「ユズリバシ」と呼んでいました。

しかしこの百万遍の行事には、もとはどこでもふんどし一つの若者たちが、珠数(じゅず)のかわりに、大きなしめ縄をかつぎ「ナイダーナイダー」ととなえながら家々を廻りました。家々ではこの若者たちに泥(どろ)などの汚物(おぶつ)をぬって外に追いだしました。これはおそらく家の中の悪魔(あくま)を若者たちにおしつけたということなのでしょう。このとき若者たちは「聟(むこ)いじめ」といい、ほかの村からきた聟さんをしばったり、かつぎあげたりして乱暴(らんぼう)し、「ナイターナイター」とはやし立てていじめたといいます。こうして行事が終わると、その村を流れる川や用水路に頭から飛(と)びこみ、汚(よご)れきった体を洗い落(お)として清(きよ)めました。でもこのような若者による乱暴な行いは、大正期ごろから「ヤバン」だといって中止したといいます。

七月と八月の行事

七月の主な行事には七夕(たなばた)とお盆(ぼん)がありますが、越谷地域では今でも七夕もお盆も月おくれで行われています。このほか各神社の夏祭りがありますが、この日も新暦や旧暦、月おくれが入りまじっていて一定していません。なかにはお祭りを土曜・日曜にかけて行う所もあるので、かならずしも昔どおりの祭礼日を守っているとは限りません。そこでここでは七月と八月を一しょにしてみていきます。まず七月には「虫追(お)い」ともいわれる「虫送(おく)り」の行事がどこでも行われていました。稲に虫がつかないようにと祈願する行事です。期日は一定していませんが、およそ稲が成育して田の草とりがいそがしいころですので、旧暦では六月の末ごろにあたります。この日、夕暮(ぐ)れどきになると各家から一人あて鎮守の社(やしろ)に集まり、お神酒(みき)をあげ灯明(とうみょう)をともして豊作を祈ります。その後、各人が麦わらで作った大きなたいまつを御神灯の火でもやし、行列をつくって田んぼのあぜ道に向かいます。先頭は神社からいただいた「ゴへイ」(神様のお札(ふだ))を持った人、次に棒(ぼう)を通し二人でかついだ大太鼓と、それをたたく人、次に小太鼓二つとこれをたたく人、次に鉦(かね)をたたく人、そして後から火のついた麦わらのたいまつをもった人が「ホウイ、ホウイ」とさけびながら続きます。

そのころは、もう広々とした耕地も暗(くら)くなり、たいまつの火だけがあかあかとうつります。こうして耕地のあぜ道を歩き、村の境までくると「ゴヘイ」を立て、たいまつをかさねて置き、たいまつが燃(も)えつきるころ手を打って解散(かいさん)します。現在この虫送りの行事は住宅の進出(しんしゅつ)できけんなため中止された所が多いようですが、新方地区では今でも七月二十四日ごろに行われています。この地区ではもとは虫送りがすんでから船渡の香取神社に集まり、お神楽(かぐら)をみてから解散したといわれます。

なお西方村の記録(きろく)では、西方地域で虫送りがはじまったのは寛政三年(一七九一)のことでした。この年は虫送りをしたためか豊作だったので、毎年この行事をするようになったといいます。ですから越谷地域で虫送りが行われたのは、およそこのころからだとみられます。もっとも虫はあかりを求めて集まってくるので、虫を退治(たいじ)するにはよい方法であったに違いありません。

つぎに七夕(たなばた)ですが、これは五節句のなかの一つで、旧暦七月七日にあたります。今の暦では八月のはじめごろで流星(りゅうせい)がことに美しいときです。この日、天(あま)の川(星のむれ)の両はしにいる「ヒコボシ」と「オリヒメ」という星が、一年に一度この日に一しょになるという伝説が古くからありました。越谷の人びとは、この日にそなえ真菰(まこも)の葉で二頭(とう)の馬を作っておきました。この馬は七夕の当日、天の川にのぼり「ヒコボシ」と「オリヒメ」を乗せて二人を合(あ)わせるという役目をもっているそうです。

真菰でつくった馬の高さはおよそ二〇センチ、長さは一メートルほどで、たてがみとしっぽは、稲の穂(ほ)か稲の苗(なえ)草をつかいました。そしてこの馬を木の杭(くい)にわたした「ノロシ竹」(稲束をかける竹ざお)の上に向かい合わせにしばり、その中央に色紙(しきし)や短冊(たんざく)をつけた笹(ささ)竹を立てて家の軒端(のきば)たにかざりました。笹竹につけた色紙や短冊には「天の川」などと書きましたが、このときの墨は、里芋や蓮(はす)の葉にたまった露(つゆ)を集めてつくったといいます。またこの七夕には「とうもろこし」や「枝豆(えだまめ)」「きゅうり」「小麦まんじゅう」などを供(そな)えましたが、畑地の多い増森や花田では自製の「うどん」を供えたといいます。

こうして七夕が終わると、七夕の馬はのろし竹からはずし、二頭重ねて屋根にあげました。天国で二人を合わすことができたという意味だそうで、この二頭の馬はいつの間にか屋根の上から姿を消し、天に昇ると信じられています。また大間野などでは、この馬を屋根にあげるのは「火ぶせ」といって火事を防ぐためだともいっています。このほか小曾川などではこの馬をとっておき、子供が川などに落(お)ちておぼれたとき、この馬をもやして子供を暖(あたた)めると助かるといういい伝えや、花田などのように馬を家の中に入れておくと、盗難除(とうなんよ)けになると信じられている所もありました。

また、夏の大きな行事には、なんといっても「お盆(ぼん)」があります。お盆とは仏教でいう盂蘭盆(うらぼん)を略(りゃく)したもので、死んだ人がもっとも苦(くる)しんでいるときという意味だそうです。そしてお盆のあいだはいろいろな食物を祖先など死んだ人の霊(れい)に供え、その苦(くる)しみを救(すく)うのだといわれます。この行事は昔から正月とともに、もっとも大切な行事で、一年の区切りはこの正月とお盆によって分けられていました。

さてお盆は八月一日(新暦では七月一日)の「カマノクチアケ」からはじまります。「カマノクチ」とは「釜の口あけ」つまり地獄(じごく)の門があく日だそうです。この日、念仏講中の人びとによって「カマノクチ念仏」がとなえられました。またこの日は「ハカナギ」といって新竹(しんだけ)を切ってつくったほうきで墓石(はかいし)や墓場のそうじをしました。とくに新仏(しんぼとけ)(前の年のお盆すぎになくなった人)のいる家では「新盆(にいぼん)」といい、夜のあけないうちに近所の人や親類(しんるい)が集まって、三メートルもある大きな灯籠(とうろう)をつくりました。これを高灯籠と呼んでいます。この灯籠には、八月二十四日の地蔵盆(じぞうぼん)まで灯(あか)りをともしたといいます。

また八月十三日までには、どこの家でも戸板一枚ほどの大きさの竹でかこった盆棚(ぼんだな)を作りました。これを「精霊棚(せいれいだな)」と呼んでいます。この棚にござをしき、死んだ人の位碑(いはい)をならべ、棚のまわりにしめ縄を張って、ほうずき、そうめん、粟(あわ)や、稲の穂(ほ)、大豆の実(み)をつけた枝などをつるしました。そして、そのうしろに「盆バタ」といって五色の色紙をつるします。やがて十三日を迎えますと、朝早く、花やちょうちんを持って墓所へ行き、ちょうちんに灯りをともします。この灯(ひ)が仏(ほとけ)の霊(れい)だといわれ、この灯を家に持ち帰り縁側(えんがわ)からあがって盆棚のろうそくに灯を移します。仏が家に戻(もど)ったということで、この灯りを「迎え火」と呼びました。なかには墓所で灯をともしての帰り道、「野まわり」といって田畑のまわりをめぐり、作物のできばえを先祖(せんぞ)の霊(れい)にみてもらう所もありました(小曾川など)。こうして仏を迎えると盆棚のうえに里芋や蓮の葉をしき、そのうえに「オガラ」(麻の皮をはいだ茎(くき))の箸(はし)をそえて、迎えだんごやうどん、小豆飯(あずきめし)その他精進(しょうじん)あげなどのごちそうを供えました。

つぎの日は「タナマイリ」といい、きゅうりとなすでかたどった二頭の馬をつくり、盆棚に供えます。この馬は仏をのせて天竺(てんじく)(インド)へ施餓鬼(せがき)をうけに行ってくるといわれます。そこでこの馬に米や麦などを背負(せお)わせましたが、夕方になると天竺から戻ってくるということです。またこの日は坊さんが各家をまわりお経(きょう)をあげて歩きましたが、このときのお経を「タナ経(きょう)」と呼んでいます。このお盆中、増林などでは〝お静かな盆でおめでとうございます〟とあいさつし、近所どおし、おたがいに線香をあげてくるといいます。

つぎの日つまり十五日は仏を送る日で、この日の夕方、盆棚の灯をちょうちんに移し、墓所でこの灯を消してきます。これを「送り火」と呼んでいます。仏が墓所に帰っていったわけです。このとき「おみやげ」といって、蓮の葉に茶の葉をつつみ、きゅうりとなすで作った馬にこれをつけて川に流しました。このほか盆棚や供え物なども灯籠(とうろう)とともに川に流しましたが、今は川が汚(よご)れるので家の中で処分(しょぶん)されています。

こうしてお盆の行事は終わるわけですが、十六日には「ヤブ入り」といって奉公(ほうこう)にでていた人や嫁に行った人たちが帰ってきました。そして八月二十四日の地蔵盆(裏盆(うらぼん)ともいいます)まではお盆で、その間にお寺で施餓鬼供養(せがきくよう)などが行われます。また子供たちはかた紙でちょうちんをつくり、「ロウソク」をともして〝ボンボン〟とはやしながら遊び歩いたといいます。今はお盆にはどこでも「盆おどり」が盛んですが、昔は越谷地域では、盆おどりはなかったようです。

九月~十一月の行事

九月の行事には、旧暦八月一日にあたる日を「八さく」と呼んで知人(ちじん)におくりものをするならわしでした。越谷地域では月おくれの九月一日に赤飯をふかしたり小麦まんじゅうなどをつくって近所に配りました。この小麦まんじゅうは、よしの葉でまいたので一名「よしまんじゅう」とも呼ばれました。なかにはこの日を「バカボコ節句」と呼び、聟(むこ)がしょうがをもって実家に帰る日であるという所もあります。そこでこの日を「しょうが節句」とも呼んでいたようです。次いで九月四日は大相模不動尊のお祭りです。この日は「梨市(なしいち)」といって梨を商(あきな)う出店が立ちならんでにぎわい、大相模の名物の一つでした。また九月九日は「クンチ」といい、子供たちが鎮守のお堂などで「オコモリ」をしましたが、越谷では月おくれの十月九日にやっていました。この日の前日、子供たちが太鼓(たいこ)をたたき〝赤まんまもってこい〟といいながら家々を廻り、お灯明銭(とうみょうせん)をもらい、ふとんをもってお堂に集まりました。家々では赤飯(せきはん)をたいたり「にしめ」をつくったりしてお堂に運(はこ)びました。子供たちは大さわぎしながら一夜をお堂の中ですごしたといいます。なかにははじめのクンチ、中のクンチ、しまいのクンチと三回行われていた所もあったようです(花田)。

次いで旧暦の八月十五日は満月(まんげつ)を祝う「十五夜さま」です。新暦では秋風のたちはじめる九月のなかごろにあたります。この日家々では「すすき」や柿や里芋・だんごなどを膳(ぜん)のうえにのせてお月さまに供えました。なかには増森などのように、この日は、月と太陽がお国めぐりをする日なので、女の人と子供は丸いおだんごを食べてはいけないという所もありました。これは女や子供は、お国めぐりのような遠い旅(たび)はできないから、ということからきたもののようです。

また花田などでは、九月二十八日から二、三日の間は若い男女がお寺のお堂に集まって遊ぶことがならわしで、このときは夜になっても家に帰らなくてよいとされていたようです。これは嫁(よめ)えらびの行事なのかどうかはっきりしませんが、今ではこの風習はなくなったといいます。またとりいれを祝う鎮守の秋祭りは、新暦では十月から十一月にかけて行われていましたが、今は新暦の九月に行われている所も多いようです。ことに九月二十八日から二十九日にかけて行われる、越ヶ谷久伊豆(ひさいず)神社の祭りは盛大で「ばか祭り」とも呼ばれていますが、昔はもっとたいへんで、三日間にわたって夜昼ぶっとうしで続(つづ)けられたといいます。

さて旧暦の十月は「神無月(かんなづき)」と呼ばれ、日本中のすべての神様が縁談(えんだん)などのとりきめに、出雲(いずも)の国(現島根県)に集まるといわれています、新暦では十一月にあたります。そこで大道などでは十月一日(月おくれでは十一月一日)には、出雲に旅立ちする神様へお土産(みやげ)を持たせるといい、三十六個のだんごを重箱(じゅうばこ)に入れ、菊の花や松をかざって神様に供えました。この神様がいない間に、秋のとり入れなど仕事を全部かたずけておかねばならないともいわれています。

また蒲生などでは、神様が「るす」であるということから、十月十四日には「ルスイギョウ」といい、ごちそうをつくって食べました。神様(鬼)のいないうちに、うまいものを食べておこうというそうで、今でも親がるすのときは〝今日はルスイギョウをやっちゃおう〟といい、勝手な遊びをする人がいるということです。やがて十月の晦日(みそか)(月おくれでは十一月三十日)になりますと、神様たちが一か月ぶりで出雲から帰ってきます。

この日、増森などでは「おぼん」に砂を入れ、そのうえに笹を立てて門口に置きました。荒神(こうじん)様が、旅(たび)でよごれた足をこの笹ではらい落として、家の内に入るということだそうです。また小曾川などでは「神迎(かみむか)え」といい、年ごろの娘(むすめ)の頭にだんごをのせます。そしてだんごのころがり落(お)ちた方角によい縁談(えんだん)があるといわれていました。またこの日の夜はどこでも「オカガリ」といって、神棚に祀(まつ)っていたお札(ふだ)やだるまなどのかざりものを、鎮守の境内でもやしました。新年には新しいお札やかざり物を神棚などに納(おさ)めなければならなかったからです。

このほか、十月十五日はお日待(ひまち)といって、新米で餅をつきました。これを「わせ祝い」とも呼んだ所があります。収穫(しゅうかく)した早稲米(わせまい)をお日さまに供えるということでしょう。また十一月十日は「トウカンヤ」といって子供たちを中心にした行事があります。これはわらを太(ふと)い縄にしてつくった「ワラテッポウ」を持って畑に行き〝とうかんやのわらてっぽう、大根がうえぬけた〟とはやしながら地面をたたきつける行事です。この「トウカンヤ」を花田などでは「イノコサマ」といい「イノコ餅」をつくりました。イノコとは「モグラ」のことで、「モグラオイ」ともいわれます。せっかく芽(め)をだした麦や大根がもぐらに荒(あら)されるのを防ぐ行事であったのです。

また十一月二十日は「エビスコウ」で、この日お酒とともに、お頭(かしら)つきの焼(や)き魚やケンチン汁(じる)、それに「カキブナ」といって、生(い)きた鮒(ふな)二匹をうつわに入れてエビス様に供えました。この「カキブナ」は後で川に放したといいます。また一升ますにお金を入れて「エビス様」に供えた家もあったといいます。なおこの「エビスコウ」は一月の二十日にも行われます。このうち十一月は農家の行事、一月のは商家の行事ともいわれています。

十二月の行事

十二月一日を大泊などでは「カビタリ」といって汁粉餅(しるこもち)をつくりました。そのいわれはよくわかりません。また十二月八日は「ヨーカ節句」といい、竹ざおの先に「めざる」をつるして家の軒端(のきば)に立てかけました。これはこの日、一つ目小僧がやってくる日で、目の多いざるを立てかけておくと、一つ目小僧が驚(おどろ)いて逃(に)げていくということだそうです。この「ヨーカ節句」は二月の八日にも行われますが、増森などでは十二月の節句にはざるを下に向けます。これは借金をみんな返しましたということだそうで、二月にはざるを上に向けて立てます。これはこれからまた貸(か)してくださいということだそうです。もっとも大房(おおふさ)(現北越谷)などのように十二月の「ヨーカ節句」を十二月二十八日としている所もあります。

また十二月の二十七日は大相模不動尊の縁日(えんにち)です。この夜、周辺(しゅうへん)村々の男たちが、ふんどし一つの裸(はだか)で「ロッコンショウジョウ」ととなえながら、不動尊にかけ足で向かい、不動尊につくと、お寺でつくっておいた熱い汁粉(しるこ)をいただき、またかけ足で「ロッコン」をとなえながら家に帰るというならわしでした。さて十二月は「師走(しわす)」とも呼ばれ、一年のしめくくりや正月のしたくでいそがしい月です。そして二十日ごろから「ススハライ」が行われます。このときは笹竹二本をたばねたほうきで家の内外の「スス」をおとしました。はらったススはまとめて川に流したといいます。ただし申(さる)の日(十二日に一回やってきます)には、なぜかわかりませんが「ススハライ」はやらなかったといいます。ススハライを終(お)えると餅つきがはじまりますが、二十九日の餅つきは「クンチモチ」といわれ、この日は餅をつきませんでした。また餅つきには「ぞうに」用の「のし餅」のほか、お供(そな)え用の餅を一臼(うす)つき、神棚や年神、大神宮、荒神などに供えました。

暮(く)れも押(お)し迫(せま)ると、どこの地でも正月用品を売る年の市(いち)がたちました。このうち越ヶ谷久伊豆神社の市は「おかめ市」、蒲生の市は「茶屋市」とか「ゴボウ市」と呼ばれて、とくに知られていました。蒲生の「茶屋市」は、江戸時代立場(たてば)であった上茶屋・下茶屋と呼ばれた日光街道ぞいに市がたちましたので「茶屋市」、「ゴボウ市」とは、安行(あんぎょう)(現川口市)あたりから質のよいゴボウが運(はこ)ばれてきて売られたことから「ゴボウ市」と呼ばれたといいます。

年の市で正月用の品々をそろえますと、こんどは神様に供える「柳箸(やなぎはし)」や「よしであんだお膳(ぜん)」をたくさん作っておきました。正月中神様に供えるおぞうになどは、箸や膳も一回ごとにとりかえたからです。また正月を迎えるためのおかざりは、一夜かざり(十二月三十一日)はいけないといわれ、三十日までにかざりつけました。このおかざりの一つに「七五三かざり」と呼ばれた「しめなわ」があります。これは「シデ」という白い紙でつくった「ゴヘイ」と松の小枝をさしたもので、井戸神や荒神(こうじん)、大神宮などの神様の前に張(は)りました。また松かざりは燃料(ねんりょう)用の薪(まき)につかう割(わ)り木に「ナタ」でみぞを掘(ほ)り、縄(なわ)で直径(ちょっけい)二尺ほど(約六〇センチメートル)の大きさにたばねたうえに松の枝と笹をさして作ります。これを門口や井戸神、稲荷(いなり)の祠(ほこら)などにかざりつけました。このときの松かざり用の「わり木」(薪)は、その色が赤い「はんの木」がよいとされていました。

こうして「オオミソカ」を迎えますが、この日「ソバガラ」と「ナスの木の枝」を一しょにもやしました。これは借金を「そばからなす」ということだそうです。またこの日神棚に「ブツク」(仏供)といって細長いおにぎりを十二個お供えする所もありました(蒲生など)。

正月の〆かざりと松かざり
鍬入れの行事
家の中にかざられたマユダマ
向畑の初午まつり
ビシヤの矢と的(間久里)
越ヶ谷ねりびな
灌仏会の花御堂
花田の念仏
鯉のぼり(花田)
昭和30年ごろの大相模の田植え風景
昭和50年ごろの大泊観音堂
新方地区の虫追い
七夕かざり
ぼん棚
天嶽寺の無縁墓石
月見の供え物
昭和34年の越ヶ谷久伊豆神社の祭り
ヨーカ節句の目ざる
昭和30年ごろの越ヶ谷久伊豆神社