人生儀礼

127~143/204ページ

原本の該当ページを見る

人生儀礼

人の一生はまず誕生(たんじょう)からはじまります。生(う)まれた子は例外(れいがい)を除(のぞ)いては親に育てられて成長(せいちょう)していきます。その間に無事に生まれたときの行事や、無事に育ったときのお祝いの行事などが行われます。やがて子供は大きくなって大人(おとな)の仲間(なかま)入りする年ごろを迎(むか)えますが、これを成人(せいじん)といっています。成人すると男の人と女の人が一しょになって家庭(かてい)をもちますが、このときの儀式(ぎしき)を婚礼(こんれい)といいます。家庭をもってからもいろいろなことがありますが、やがてだれでもが死ぬことになります。死んだときの儀式を葬儀(そうぎ)と呼んでいます。

このような出産とか葬儀といった一生の間に、だれでもが経験することがらにたいしては、遠い昔から、その土地その土地で、一定(いってい)のしきたりがありました。このならわしは親から子、子から孫へと伝えられ、昔からのしきたりどおり行われたのがふつうでした。この一生の間に行われる行事を人生儀礼といっています。

今は私たちの生活は、昔とはまったく変(か)わりましたし、早くから親もとを離(はな)れて独立した生活をする人が多くなりましたので、昔どおりの慣(かん)行を、そのままうけついでやることは少なくなりました。そこで、今のうちに、私たちの先祖が行なってきた生活上のしきたりを、記録(きろく)にとどめることで、今後の調査の参考にさせたいと思います。

出産

子供がおなかの中にできてから(にんしんといいます)五か月目になると、子供ができた女の人の実家(じっか)から「帯祝(おびいわい)」といって紅白(こうはく)のさらし布と「なんてん」の木の葉をのせたお赤飯(せきはん)を送ってくるならわしでした。このさらし布は七尺五寸八分の長さに切って、その切り口に「寿(ことぶき)」という字を書き、十二日に一回まわってくる、十二支(し)のうちの戌(いぬ)の日に産婦(さんぷ)が腹に巻(ま)きました。戌は犬(いぬ)のことですが、犬はかんたんに子を生(う)んだので、犬のように安(やす)らかに子供が生まれますようにと願って、戌の日をえらんだものでしょう。

こうして九か月目ごろになりますと「トビダシゴイ」といって、赤子が鯉(こい)のように元気よくおなかからとび出すようにと、鯉の料理(りょうり)を産婦(さんぷ)に食べさせました。子供が生(う)まれるのは、おなかに子ができてから十月十日(とつきとうか)目ごろだといいます。このときにははげしい痛(いた)みがおこります。産婦はこの痛みをこらえて子供を生みますが、昔はたいてい座(すわ)ったままで生んだといいます。これを「座産(ざさん)」といいます。このとき「サイチタバ」と呼ばれる藁束(わらたば)を、二十一束つくってまくらもとに置きました。赤子を生んでから、この藁束によりかかって寝(ね)ましたが、一日ごとに一束ずつ抜(ぬ)きとり、二一日目にこれをまとめて川に流したといいます。

またお産(さん)のときは、地蔵堂(どう)や観音堂にあげたお灯明(とうみょう)用の「ろうそく」をいただいてきて火をともしました。そうすると、ろうそくがもえつきないうちに赤子が生まれるといわれていました。こうして赤子が生まれると、「後産(あとざん)」といっておなかのなかで赤子をつつんでいた、やわらかい皮(かわ)のようなものがでてきます。これを「エナ」と呼んでいます。この「エナ」は方角のよい所に穴(あな)を掘り「オサンゴ」(米)と、かつおぶしを紙につつみ、麻のひもでむすんだものといっしょにうめました。生まれた子は産湯(うぶゆ)といってすぐにお湯をつかわせました。このつかったお湯も方角のよい場所に穴を掘って、二十一日間はこの穴に捨(す)てたといいます。また所によっては赤子が生まれると近所の人や親類が集(あつ)まり、「ネネッコダキ」といって、「いい子だ、いい子だ」などとほめながら、一人一人赤子をだくというならわしの所もありました(千疋など)。

赤子を生(う)んだ母親は、藁束をまくらがわりにして横になったままですが、その食事は、七日目まではお粥(かゆ)で、おかずは「みそづけ」や「じゃがいも」や「かんぴょう」の煮(に)つけでした。梅干(うめぼし)またはさしみなどの生物(なまもの)は血がにごるといって食べませんでした。

育児(いくじ)

赤子が七日目になると「お七夜(しちや)」といい、「とりあげ婆さん」(おさんばさん)などを招(まね)いて無事に赤子が生(う)まれたお礼をします。このとき「セッチンマイリ」といって赤子の頭に「おむつ」をかぶせて便所へつれていきます。このときも「オサンゴ」(米)と、かつおぶしを半紙につつんで麻ひもでむすび、これに竹の箸(はし)をそえて便所の神様に供えました。このとき便所のなかの大便を、竹の箸で三回ほどすくって赤子に食べさせるまねをしました。こうすると赤子は七歳になるまでは犬になっているといいます。おそらくこれは、犬の子は元気に育ちますので、赤子が丈夫(じょうぶ)に育つようにとの願(ねが)いをこめたものでしょう。

赤子の名まえはおよそ「お七夜」ごろまでにつけられますが、そのころ「へそのお」もとれます。この「へそのお」は「九死に一生」というような、命(いのち)のあぶないときにけずってのませると助かるといわれ、大事にしまっておきました。

やがて赤子が二一日目になると「ウブ毛」をそりますが、「ボン」の「クボ」にはえている毛だけは残しておきました。子供が川におちたとき、神様がその毛をつかんで助けてくれるからだといいます。「ボン」とは首のうしろにあたる所で「ウナジ」ともいいます。「ボン」とはその「ウナジ」のくぼんだ所です。

母親も、この二一日目には、「血ブク」がとれたといって神様などにお参りすることができました。「ブク」とは「けがれ」のことだそうです。またこの日「新客(しんきゃく)」といい赤子をつれて実家に帰ることもしました。そして男の子は二十一日目、女の子は三十三日目に鎮守(ちんじゅ)の神におまいりしました。これを「お宮まいり」といいます。このとき小豆飯(あずきめし)をたき、集まってきた子供たちに配(くば)ったといいます。そのあとで、村のなかにある橋のたもとに小豆飯をそなえる所もありました(向畑など)。そうすると「クチムキ」(百日ぜきのこと)にかかっても軽くすむといわれています。なお母親にお乳(ちち)がでないときは、「ウルチ米」に「モチ米」をまぜて粉(こな)にひき、これに砂糖(さとう)を少し入れて「おも湯」のように煮(に)たものをのませました。これを「ミジンコ」と呼んでいます。

やがて赤子が百日目になると、「食(く)いぞめ」といって、小豆飯をたいて、食べさせるまねごとをしました。なかには赤子のお膳(ぜん)の上に小石をのせるところ(登戸など)もありましたが、このいわれは不明です。また赤子が十か月目で歯(は)がはえると、「トツキトウバ」といって、縁起(えんぎ)が悪いといい、一たんその子を捨て子して他人にひろってもらったといいます。この捨(す)て子のならわしは、父親が四二歳のときに子供が二歳のときも「四二のふたつ子」といって捨て子をしたといいます。

また体の弱(よわ)い男の子などを「呑龍(どんりゅう)」さんに預(あず)けるといって、平方の林西寺の帳面に名前を書いて呑龍の弟子(でし)とさせ、七歳になるまで毎月おまいりするところもありました。このときは「子育て呑龍さんは毛を嫌(きら)う」といって、七歳になるまでは坊主にしておきました。そして七歳になった八月十五日に「おはぎ」を十五夜お月さんにそなえ、それから毛をのばさせたといいます。「呑龍(どんりゅう)」とは平方林西寺に、長い間住職(じゅうしょく)を勤(つと)めたお坊(ぼう)さんで、のち太田(群馬県太田市)の大光院(だいこういん)に移りましたが、情(なさけ)ぶかい坊さんとして有名な人でした。ことに呑龍は貧(まず)しい家の幼(おさな)い子をたくさん引きとり、七歳になるまで養育(よういく)しましたので、「子育(こそだ)て呑龍」ともいわれ、多くの人びとから、したわれました。このため子育て呑龍に弟子(でし)入りさせると、子供は元気にかしこく育つという信仰(しんこう)が広まったわけです。

このほか越谷地域のならわしでは、七月一日に、赤子に晴着を着せて山の神様である浅間(せんげん)神社におまいりさせました。この日は浅間神社のお祭り日で、これを「初山(はつやま)のぼり」と呼んでいます。生まれてはじめて山にのぼるということです。また、はじめての誕生日(たんじょうび)を「ムカリヅキ」と呼んでいます。この「ムカリヅキ」前に歩いた子には、「力もち」または「ぶっつい餅」と呼んでいる一升餅(いっしょうもち)を、子供に背負(せお)わせるならわしでした。

こうして男女七歳になると「帯(おび)とき」または「ヒボトリ」といって、無事(ぶじ)にここまで育ってきたというお祝(いわ)いをしました。この「帯とき」とは、ひものついた着物から帯をしめる着物にかえるということです。昔はお医者(いしゃ)さんが少なかっただけに、七歳まで育つのはたいへんなことで、幼児(ようじ)のうちに病気で死ぬことが多かったのです。そこで病気にまけない体力(たいりょく)がついた七歳になると、盛大(せいだい)なお祝いをするのがふつうでした。もっとも「七・五・三祝い」といって今でも昔の「帯とき」と同じようなお祝いが盛(さか)んですが、もとは七歳のお祝いだけであったのです。

しつけ

昔の教育(きょういく)は、今とちがって「よみ」「かき」「そろばん」を「寺子屋」といって、お寺や個人の家でならいましたが、寺子屋に通(かよ)って勉強する人はきわめて少なかったようです。その多くは、小さいときから田畑で働(はたら)かされたからです。それでも村によっては「子供組」というものがあって、毎月二十五日の天神(てんじん)様(学問の神様)の縁日(えんにち)に、子供たちみんな集まり「いろは」などの字を書いて天神様に奉納(ほうのう)していた所もあります(四町野など)。この天神様や天満宮(てんまんぐう)には菅原道真(すがわらのみちざね)という人がお祀(まつ)りされています。それでこの手ならいが上たつするようにと「天神社」や「天満宮」の祠(ほこら)などを建ててお祀(まつ)りすることがはやりました。なかには子供たちが石塔をたてることもありました。たとえば、越巻中新田の稲荷神社境内に、子供連中による「菅原荘(すがわらそう)」(菅原道真のこと)という嘉永三年(一八五〇)の石塔がたてられています。

明治になると、公立の学校ができて勉強(べんきょう)は義務(ぎむ)教育制になりました。それでもはじめのうちは学校に通う子供は少なかったといいます。親から子へと伝えられてきた農業の仕事は、そのやり方を親から教(おそ)わればよいことで、そのほかの学問は必要ないという人が多かったからです。こうして学校に行く、行かないにしろ、一五歳ごろになると一人前とみなされ、「ワカイシュ講」という若者の集まりである組織(そしき)に入りました。娘たちの集まりである「ムスメ講」も設(もう)けられていました。

これらの講は「ユサン講」とも呼ばれ、みんなで集まって飲み食いしたり、話し合ったりする会でしたが、お祭りや堀さらい、道ぶしん、村芝居(しばい)など、村の行事には先に立って働きました。そして当時男は一日に七・八畝歩(約七~八アール)、女で五畝歩ほど田ウナイできなければ、一人前とはいわれなかったといいます。

婚姻(こんいん)

ふつう男の人は二十二・三、女の人は十九か二十(はたち)ぐらいになると結婚(けっこん)しました。結婚するには「仲人(なこうど)」がなかに立って話を進め、「見合(みあ)い」といって娘の家などでおたがいに合(あ)って、どんな人かを見定めました。このときどちらかが気に入らないときは「考えてみます」といいますと、それでよかったそうです。もしおたがいに気があえば良(よ)い日をえらび、「ユイノウ」といって「タルカマス」(酒)、「カナイキタル」(お金)、そのほか末広(すえひろ)(せんす)、ともしらが、半紙、昆布(こんぶ)などがそえられた目録(もくろく)が、娘の家にとどけられます。

この日嫁(よめ)となる娘が、とどけられた「ユイノウ」とともに、男の人の家に行って先方の家の人たちと一しょに生活することもあります。これを「アシイレ」と呼んでいますが、「ユイノウヒッコシ」または「マカリシュウゲン」とも呼ばれました。およそ春のころ「アシイレ」をして、作物のとり入れがすんだころ、正式に祝儀が行われるのがふつうであったようです。結婚(けっこん)するおたがいの年齢(れい)はまちまちでしたが、「四ッ目」といって四歳違いや、「十目(とうめ)」といって一〇歳違いのときは、よくないといわれました。ぎゃくに女の人が男の人より一歳年上のときは「アマル」といって喜んだといわれます。また親のきめた相手でなく、好きなどおしで結婚することもありましたが、これを「ナレアイ」といってきらったそうです。そして親たちが、結婚の相手にえらぶ第一の条件(じょうけん)は、相手の人の顔かたちより、よく働くかどうかだったといいます。

婚礼(こんれい)

「ユイノウ」をとりかわし、あるいは「アシイレ」が終わると、こんどは正式に結婚式となります。この日の朝、嫁になる人は着かざって鎮守の神におわかれのお参りをしました。その後で親類の人や近所の人たちを招いてごちそうしました。これを「タチブルマイ」と呼んでいます。こうして夜になると弓張(ゆみは)りちょうちんを先頭(せんとう)に、親類などが行列(ぎょうれつ)をつくって嫁(とつ)ぎ先の家に行きました。この行列を「アトツキ万歳(まんざい)」と呼んでいます。途中「チューヤド」と呼んだ休場を設(もう)け、ここで休みをとり、嫁の「綿ボウシ」や「ツノカクシ」を着(つ)けさせてから、先方の家に行くこともありました。

嫁の行列がとうちゃくするころ、聟(むこ)をはじめ聟方の親類などがたいまつをもやし、菅笠(すげがさ)と杖(つえ)をもって迎えに出ます。行列(ぎょうれつ)の一行が家の前までくると、左がわに立った男の子と、右がわに立った女の子が、門口(かどぐち)にX字型に重(かさ)ねられた麦わらのたいまつに火をつけてもちあげます。このたいまつの間を菅笠をかぶり杖(つえ)をついた嫁とそれに聟が通ります。麦わらのたいまつの火は嫁などが通ったあと、もんで消しますが、この火を消すとき、もめばもむほどよいといいました。こうして一同は玄関(げんかん)から家の中に入りますが、仲人(なこうど)につきそわれた嫁だけは勝手口から家の中に入り、「カマド」に祀(まつ)られている荒神(こうじん)様にお参りしてから座敷(ざしき)にあがりました。

こうして嫁が座(ざ)についたところで「入家式(にゅうかしき)」とも呼ばれる婚礼式になります。まず桜湯を一同に出し、次に「オチツキ」といって赤飯を出しました。次に高膳(たかぜん)にのせたにしめや吸いものを出し、三々九度のさかずきがとりかわされます。このさかずきを「アイサカズキ」または「カタメノサカズキ」とも呼びました。次に親子兄弟(きょうだい)のさかずきをとりかわします。このときのさかずきにつぐ酒は冷(ひや)酒を用いました。その後「かん」(暖めたもの)のついた酒が出され酒宴(しゅえん)となります。このとき嫁は「お色なおし」といって着がえをし、客におしゃくして廻ります。

宴が終わるとお客は「お立ち茶」といってお茶をのんでから帰りました。次の日は「メデタモウシ」といって近所の人たちを招(まね)いて嫁をみんなに紹介(しょうかい)しました。よばれた人たちは、〝こちらさまのおだんな様は朝日さすよな嫁もらい、七福神(ふくじん)の孫をもち末代(まつだい)長者(ちょうじゃ)でくらします〟といった嫁や聟をほめたたえた歌をうたいました。このとき家では、きな粉のぼた餅を三つ出し、あとで二つを追加して、五つにして出すようにしたといいます。

嫁と聟は祝儀のあと三日目には「ミツメ」の里がえりといって、嫁の実家に行きます。このとき嫁の実家では近所の人たちを招(まね)いて聟を紹介(しょうかい)しました。これを「ゴヒロウ」と呼んでいます。「三ッ目」の里帰りをしてから二、三日して、こんどは「カミアライ」といって、嫁だけが実家に帰りました。このときは泊(とま)りがけの里帰りでした。

嫁講(よめこう)・念仏講(ねんぶつこう)

こうして嫁はとつぎ先の家の人となりましたが、それからがたいへんでした。朝は早く起きて食事のしたくをし、食事が終(お)わると田や畑の仕事に出ました。帰ってきてからも、また家の仕事やせんたくなどをしました。そのうえ、夜はおそくまでランプの灯(ひ)をともしてぬいものや「ワラ工品」の仕事にはげみ、休むひまもありませんでした。ことにお母さん(しゅうと)のいる家では、家計(かけい)の一さいを母がにぎっていたので、自分の思うままにはできず、毎日つらい思いをしたといいます。

でも、各村や集落(しゅうらく)ごとに「嫁講」という嫁だけの集まりがあって、一月に一度ぐらいは嫁どおしが食べ物などをもちよってお堂などに集まりました。ここではおたがいに、いろいろな話し合いをしながら飲み食いしましたが、このときを、なによりも楽しみにしていた人もいたそうです。

やがて嫁さんが子供を生み、およそ四〇歳ぐらいになると、はじめて「おしゃもじ渡し」とか「シンショウマワシ」といって、母や父から家をゆずられます。家をゆずられると、聟さんはこの家のあるじ、嫁さんは主婦(しゅふ)となります。一方家をゆずった父母は「隠居(いんきょ)」ということになります。隠居したおばあさんは「おばあさん講」という集団(しゅうだん)に入りました。ここではおもに念仏をならいました。この念仏には、死んだ人のためにあげる「マクラ念仏」、家をゆずったときの「ユズリ念仏」、家を新築(しんちく)したときの「ユーミ(家見)念仏」、そのほか、それぞれの縁日の日にとなえる「月並(つきなみ)念仏」「お彼岸念仏」「お姫念仏」「お棚(たな)念仏」など、たくさんの念仏がありました。そしてそのとき、そのときお堂に集まったり、家々を廻って歩いたりして念仏をとなえ、けっこうたいくつはしていなかったようです。またおじいさんたちも観音経(かんのんきょう)などをならったり、これを若い者に教えたり、あるいは「八十八か所めぐり」といって、お寺を廻って歩く旅(たび)をして余生(よせい)を送っていたそうです。

葬儀(そうぎ)

人の一生は死で終わります。死者がでると、近所の人びとが集まり「おとむらい」と呼ばれる葬式の準備をしました。葬式の手伝いをする人たちを「葬式組合」と呼んでいます。この組合には「ロクドウ」といって、墓(はか)の穴(あな)を掘ったり「カンオケ」(死者を入れた棺(かん))をかついだりする人が四人と、「シニヅカイ」と呼ばれ、お寺へ使いに行ったり買い物をしたりして歩く人が二人きめられます。「シニヅカイ」の二人はつねに一しょに行動(こうどう)するしきたりでした。

死者はまず「湯灌(ゆかん)」といって、水に湯を入れたぬるま湯で清められます。このときには畳(たたみ)をあげた床のうえに、さかさまにふせたたらいを置き、そのうえに死者を座(すわ)らせ、「ふんどし」一つの男の人と「腰巻(こしまき)」一つの女の人が死者の体を洗いました。近親(きんしん)者もともに体をふいてあげました。こうして「ユカン」が終(お)わると死者の頭を北に向けて寝(ね)かせ、むすび目をつけない、糸でぬった白い晒(さらし)の着物を着せます。これを「キョウカタビラ」といいます。そして白たびをはかせ、キャハン・ズダブクロ・ワラジ・六文銭などを体につけました。また枕もとには刃(は)物を置きました。これは「魔(ま)」をよせつけないためだといいます。

死者への供(そな)え物は、家の外に、かりにつくったカマドでたいた飯を茶碗(ちゃわん)に山もりにつめ、これに死者がふだん使っていた箸(はし)をさして枕元(まくらもと)に置きました。これを「枕飯(まくらめし)」と、呼んでいます。このほか、臼(うす)を左廻しにひいてつくった米粉を、せんべいのように薄(うす)くしてふかしただんごを供えました。これを「枕だんご」といいます。この供え物は葬式のとき墓場まで運(はこ)びました。また死者がでたときは「お通夜(つや)」といって、親類や近所の人たちが集まり死者の供養(くよう)をしましたが、このとき「シヤゲ」といって、紙のこよりで数珠(じゅず)をつくりました。この数珠は多ければ多いほど後生(ごしょう)がよいといわれ、これを「ズダブクロ」にたくさん入れました。この夜「ホイサマ」と呼ばれた坊さんが「枕経(まくらきょう)」(死んだ人にとなえるお経)をあげます。また念仏講の人たちも「シニバライ」という枕念仏をとなえました。

やがて死者を棺(かん)の中におさめますが、この棺は昔は樽(たる)を使ったといいます。これは死者を座(すわ)らせて入れるので「座棺(ざかん)」ともいいました。坊さんの「読経(どくきょう)」のあと「出棺(しゅっかん)」になります。出棺のときは、わらのたいまつをもやし、門口に臨時に立てられた「ヨシ」か「竹」でつくった門をくぐって寺に向かいます。この行列は家によって多少の違いもありますが、およそは村の年長者が提灯(ちょうちん)をもって先頭(せんとう)にたちます。つぎに近所の人たちが前もってつくっておいた「シシテンガイ」をもってこれに続きます。つぎに「ドラ」と呼ぶ鐘をもった人、つぎに五色(ごしき)の旗や花輪、つぎに枕飯やだんごをのせたお膳、この枕飯や枕だんごをのせたお膳や位牌(いはい)は、死者の子供か妻が持ちます。つぎに坊さん、つぎに四人の「ロクドウ」にかつがれた柩(ひつぎ)、この後(うし)ろから親類や近所の人たちが行列(ぎょうれつ)をつくって進みました。

行列が道の曲がり角(かど)にくるたびにドラを鳴らしましたが、このとき人びとは「ナムアミダブツ」ととなえました。これを「野辺送(のべおく)り」と呼んでいます。

こうして寺につくと、死者を入れた棺は本堂に運ばれ、再び坊さんのお経をうけて墓場(はかば)に運ばれます。このとき死者はお寺の籍(せき)に入れられたということになるそうです。墓場では前もって「ロクドウ」が掘っておいた墓穴(はかあな)に棺を入れ、身寄(みよ)りの人たちが一くわずつ土をかぶせて埋(う)めました。この上に「トウバ」と、「七枚木」といわれる七本の位牌(いはい)を書いた板、それに金剛杖(こんごうつえ)や花立、線香立、お膳などが供えられ、あとかたずけの「ロクドウ」を残して帰りました。

一同が家に帰ると「ゴキハライ」といって、塩をまいてから座敷にあがり、「送りだんご」や精進料理(しょうじんりょうり)などで会食しました。これを「オキヨメ」といいます。最後(さいご)に「オサメ」といって茶碗(ちゃわん)にもられた飯を一口、口に入れてからみんな家に帰りました。その後、家の人は「シチナノカ」といって、七日目ごとに墓の上にたてかけた七枚の位牌(いはい)を、一本ずつ抜(ぬ)きとってすてました。これを「キチュウハライ」と呼んでいます。この「キチュウハライ」の終わりは四九日目にあたります。この日重箱に入れた「十三仏餅(じゅうさんぶつもち)」と、わらでくるんだ「シジウクモチ」をつくって寺に持っていきます。このときは、道すがら誰とあっても口(話)をきいてはならないといいます。もし口をきいたら他人に餅をとられてしまい、死者の口には入らないからだといいます。

子供が死んだときは葬式もかんたんにすませましたが、お産(さん)で死んだ人のときは、「ナガレカンチョウ」という、とくべつなお弔(とむら)いをするしきたりがありました。これはお産で死んだ人は、その恨(うら)みによって、村のなかの嫁さんを三人道づれにするといういい伝えがあったため、それをさけるための供養(くよう)だったといいます。この「ナガレカンチョウ」とは、川のへりに死者の戒名(かいみょう)を書いた位牌(いはい)をそなえ、川の中に四本の竹の柱を立てます。そこへ四角な白い布をひろげて竹柱の四隅(よすみ)にしばり、その布に死者の髪(かみ)の毛や「三三ヒロ」(約五〇メートル)の縄をつけて水にうかせておきます。このようなときには、そこを通った人はかならず、その白い布の上に「ひしゃく」で川水をすくってかけたといいます。こうしてみんなに洗ってもらうと、きれいな体になり仏の仲間入りができたといわれています。

平方林西寺
腰巻中新田の石塔
明治13年の「ユイノウ」目録
勝手口から入る花嫁
西新井の念仏講
墓地に供えられた枕飯と枕だんご
亡くなった子供に供えられた人形