越谷の河川

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越谷には、綾瀬川・元荒川・古利根川・新方川(千間堀)・出羽堀、それに元荒川と古利根川が合わさった中川などの河川があります。このうち古利根川はもと利根川の本流筋でしたが、文禄三年(一五九四)という年に、栗橋と幸手(さって)の間から庄内川(現庄内古川)筋の方に流れがつけかえられたため、それまでの利根川は水が少なくなり古いころの利根川、すなわち古利根川と呼ばれるようになりました。

なお利根川が現在のように関宿から取手(とりで)・佐原を流れて銚子(ちょうし)沖の太平洋に落(お)とされたのは、承応三年(一六五四)という、今からおよそ三三〇年ほど前のことで、比較(ひかく)的新しいころのことです。そののち古利根川は葛西用水路に利用されて今日に至っています。

また元荒川は、もとは荒川の本流筋でしたが、これも寛永六年(一六二九)という年に、熊谷の久下(くげ)という所から新しく水路がつくられ、入間川の支川(しせん)和田吉野川につけかえられました。こうしてもとの荒川は、元荒川または古荒川とも呼ばれるようになりました。

一方綾瀬川は古くは荒川の派川(はせん)で、小針領家(こばりりょうけ)(現桶川市)という所から分流していましたが、寛永六年の荒川瀬(せ)かえによって水の流れが減少(げんしょう)し、それまで沼沢地帯(しょうたくちたい)であった綾瀬川流域(りゅういき)の新田開発が急速に進みました。現越谷市出羽地区や草加市の新田地区がその一つです。そのご、綾瀬川の流れは各所でせきとめられ、農地の用水に使われていましたが、延宝(えんぽう)八年(一六八〇)という年に、綾瀬川の下流小菅村(現葛飾区)から隅田村(現墨田区)まで新川が掘られました。このときに綾瀬川のせきとめは一切禁止されました。それで堰によって舟を乗り替えすることもなくなったので、江戸に往復する綾瀬川の舟運は盛んになりました。

また千間(せんげん)堀は、桜井地区や新方地区、増林地区を流れ、中島から中川に落とされる重要な排水路(はいすいろ)です。もとは増森新田から元荒川に落とされていました。この源(みなもと)は、現春日部(かすかべ)市豊春(とよはる)地域で、このあたりからの農地から流れでた余り水が集まって川になったものです。昔から新方領唯一(ゆいいつ)の排水路として、大きな役割をはたしてきた堀です。今は新方領を貫(かん)流する川ということで、新方川と呼ばれています。

このほか出羽地区を貫流する出羽堀は、すでに地名のおこりで述(の)べたように、越ヶ谷郷の土豪(どごう)会田出羽が、新田の開発のために掘った排水路なので出羽堀と名付けられました。でも最近までは用水にも使われていました。この堀は七左町を流れ蒲生(がもう)(現在大間野からも)の藤助河岸跡地先から綾瀬川に落とされています。

蒲生の綾瀬川