越谷は、昔から「水郷(すいごう)越谷」と呼ばれていたとおり、大小いくつもの河川や用水路にめぐまれた地です。市役所の脇をゆったりと流れているのは葛西(かさい)用水路で、市内の代表的な用水路です。この用水は万治三年(一六六〇)に開発されたもので、羽生領(はにゅうりょう)川俣(かわまた)(現羽生市)から利根川の水を引き入れていました。
この用水は、川俣(かわまた)から羽生・加須(かぞ)・鷲宮(わしのみや)と古利根川の河道を流れ、幸手の琵琶溜井(びわためい)に貯(ちょ)水されました。溜井とはダムのことで水をためる所です。水がたまると水位が高くなるので、水は溜井から引かれた各用水路へ順調(じゅんちょう)に流れ、水田地などにそそがれるというしくみです。溜井は農地の水源池ともいえるでしょう。こうして幸手地域の農地をうるおした琵琶溜井の水は、さらにその下流の古利根川を流れ、杉戸、粕壁を経(へ)て松伏(まつぶし)溜井に貯水され、松伏領や二郷半(にごうはん)領の用水にも使われました。
でも大部分の水は、現越谷市大吉から鷺後(さぎしろ)用水路(逆川)を流れて瓦曾根溜井に貯水されました。瓦曾根溜井は、慶長年間(一五九六~一六一五)という古いころに、作られたと伝えられています。この溜井からは八条用水・西葛西用水・谷古田用水・四ヶ村用水が引かれ、溜井の下流何万石という広大な農地の用水に使われてきました。
さらに延宝(えんぽう)三年(一六七五)という年には、この瓦曾根溜井から江戸の本所・深川地域に住む人びとの飲(の)み水が引かれたこともありました。これを本所上水道と呼びます。でもこれは失敗(しっぱい)に終わりました。それは丘陵(きゅうりょう)地を流れる玉川上水などとちがい、本所上水は平坦(へいたん)な地を流れたので、水が少ないときはほとんど流れず、逆に、水が多いときはすぐに上水路からあふれて農地に水が入ったため、あまり水道の役目をはたさなかったからです。この本所上水道は享保(きょうほ)十八年(一七三三)という年に廃止(はいし)されました。なお現在の葛西用水は、行田市の利根大堰から取水されています。また越谷を流れる葛西用水は、もとは大沢の地蔵橋地先で元荒川と合流していましたが、昭和四十一年、用排水の分離工事の完成によって別々な水路に分けられました。このときから葛西用水は、大沢の地蔵橋先から元荒川の下をくぐり、御殿町をとおって市役所のわきを流れるようになったのです。
このほか越谷地域の主な用水路には、元荒川の流れをせき止めた末田須賀(すえたすか)溜井(現岩槻市)から引水する末田大用水路と須賀用水路があります。末田溜井の成立も、瓦曾根溜井と同じく慶長の末ごろと伝えられています。当時の元荒川は荒川の本流筋(すじ)でしたが、その上流小針(こばり)(現桶川市)で綾瀬(あやせ)川を分流していましたので、荒川をせき止めても、余分な水は綾瀬川を流れたので、大水にはならなかったものと考えられます。
末田須賀溜井から引かれた用水のうち、末田大用水は、野島・砂原・西新井・越巻(現新川町)・七左衛門・大間野を流れて綾瀬川に落とされていますが、越巻あたりからは「新川」とも呼ばれています。また須賀用水は、三野宮・大道・大竹の農地を流れましたが、間久里や大里の用水にも使われました。これらの用水路には、水が必要となる春になると水が入りますが、水がいらなくなる秋になると水がとまります。大切な水が無駄(むだ)になるからです。