鶴と越谷

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秋風が吹くころになると、鴨(かも)や雁(がん)・鶴などの渡り烏が北の海を渡って日本にもやってきます。近ごろ市内では、こうした渡り烏が遊んでいるところはあまりみられません。でも江戸時代のはじめごろは、雁や白鳥などはもちろん、鶴などもたくさん越谷に渡ってきていました。

今からおよそ三七〇年ほど前の慶長十八年(一六一三)十一月、越ヶ谷御殿をおとずれた徳川家康は、鷹(たか)を使って一日に鶴を一九羽もとったと、たいそうごきげんでした。いまのわたしたちにとっては、とうてい信じられない話ですね。当時の越谷は魚の豊富(ほうふ)な川や池や沼、緑ゆたかな林や野原などが広がり、鳥のすみよい場所であったのです。そのご、池や沼や林や野原が新田に開発されて鳥もすみにくくなり、渡り鳥の種類やその数も少なくなっていきました。

それでも元禄九年(一六九六)三月には、大間野沼に丹頂(たんちょう)の鶴二羽、七左衛門沼に真鶴(まなづる)一羽が放しがいにされて、保護されていました。また文化十三年(一八一六)には、公儀(こうぎ)(幕府)の鷹匠(たかじょう)が将軍家鷹場である西方村(現相模町)の蓮田(はすだ)で遊んでいた黒鶴をつかまえて問題になっていますので、このころにも鶴が越谷に飛んできていたことがわかります。それは遠い昔のことでなく、今からおよそ一七〇年ほど前のことです。なお当時はたとえ公儀の鷹匠でも、将軍家鷹場では、無断で鳥をとってはならないという掟(おきて)があったので、このことが問題になったわけです。

明治以後は、鶴の姿はまったくみられなくなりましたが、越谷地域は「江戸川筋御猟場(ごりょうば)」といって、禁猟区に指定されたため、とくに鴨などの水鳥がたくさん飛んできました。こうしたなかで明治四十一年には、大林の元荒川べりに、林にかこまれた宮内省(くないしょう)の埼玉鴨場が設けられました。ここには毎年秋から冬にかけてたくさんの鴨が飛んできます。住宅がたてこんだ越谷のうち、ここだけは今でも自然のままの野鳥の楽園になっています。自然をとりもどそうとする運動が近ごろ盛んですが、越谷のなかに誰でもが利用できるこうした別天地がもっとほしいものですね。

昭和34年皇太子鴨場来訪