越谷市越ヶ谷のなかに御殿(ごてん)町という所があります。戦後に開通した四号新国道(現県道足立越谷線)が元荒川にかかる橋のあたりから越ヶ谷天嶽寺(てんがくじ)にかけての所です。
今からおよそ三八〇年ほど前の慶長九年(一六〇四)、徳川家康がここに「御殿」を建てました。もと、この御殿は増林の「城の上」という所にあったといわれますが、そこは増林の林泉寺あたりとみられています。「御殿」とは徳川将軍家の別荘(べっそう)ですが、徳川家康は鷹狩(たかが)り(鷹をつかって鳥をとること)がたいそう好きでしたので、鷹狩りに行く先々の各地に、御殿をたくさんつくっていました。
このなかで家康は、とくに「越ヶ谷御殿」を好(この)み、毎年のように越ヶ谷を訪れては、一週間ぐらいの泊(とま)り狩(か)りをすることも珍(めずら)しくありませんでした。当時越谷は水鳥の生息(せいそく)に適(てき)した所で、たくさんの渡り鳥が飛んできていたからです。二代将軍秀忠も、鷹狩りのため越ヶ谷御殿を訪れていましたが、ときには幕府の重臣を引きつれ、茶の湯などをしながら一か月近くも滞在(たいざい)したこともありました。
三代将軍家光の嗣子(しし)(あとつぎ)家綱(いえつな)も、日光東照宮への参詣(さんけい)には、往きかえり越ヶ谷御殿に泊っています。このようにしばしば徳川将軍に利用されてきた越ヶ谷御殿は、「ふりそで火事」といわれる明暦(めいれき)三年(一六五七)の江戸の大火事のとき、江戸城も全焼したので、将軍のかりの居城として江戸城内に移されました。そのあとは一部の御林(おはやし)(税金のかからない土地)だけが残され、その他はすべて畑地に開発されました。
でも越ヶ谷の人びとは、ここに徳川将軍家の御殿があったということを誇(ほこ)りに思い、御殿という地名を今日まで残してきました。越ヶ谷御殿があったところは、現在の御殿町である六町歩(六ヘクタール)にわたる広さの地で、そのなかに御殿をはじめお賄(まかな)い所などの建物が建てられていたのです。