越谷市のうち、越ヶ谷町と大沢町は江戸時代、日光街道(かいどう)の宿場町でした。日光街道は千住から草加・越ヶ谷・粕壁・杉戸などを通って日光に至る街道です。当時、旅(たび)をする人の乗(の)り物(もの)(かご)や荷物などを運搬するのは馬や人でした。馬や人は生きものですから、荷物などを遠くまで運ぶと疲(つか)れてしまいます。そこですくなくとも道中二里か三里(八キロ~一二キロ)ごとに馬や人を交代(こうたい)させるための、また旅びとが休泊(きゅうはく)するための町場がつくられました。これを宿場(しゅくば)といいます。
この道中宿場には、時代が下(さ)がるとともに、農業をはなれた人びとが、人足かせぎや馬子かせぎ、あるいは旅びと相手の商(あきな)いをするため、たくさん集まってきました。こうして宿場の戸数・人口はどこでもたいへんふえてにぎやかな町になりました。このうち越ヶ谷・大沢両町を合わせた越ヶ谷宿の戸数・人口を、今からおよそ一四〇年ほど前の天保十四年(一八四三)でみますと、その戸数は一〇〇五軒で、人口は四六〇三人でした。今からみるとずいぶん小さな町のようですが、当時は、それでもたいへん大きな町だったのです。
またこの四六〇三人の人口を、男女別にわけますと、男が二二七二人で女が二三三一人でした。つまり女の人の方が多かったわけです。これは旅をする人のサービスをつとめる旅籠屋(はたごや)(旅館)やお茶屋が多かったからで、なかには越後(えちご)国(現新潟県)からお金で買われて旅籠屋へ働きにくる女の人もいました。
なお越ヶ谷宿には、大小六〇軒ほどの旅籠屋がありましたが、そのほとんどが大沢町に集まっていました。このなかで地位の高い役人や大名、それに京都の公卿(くぎょう)などといった貴(き)人を泊(と)める宿屋を「本陣(ほんじん)」といいました。越ヶ谷宿の本陣は、はじめ越ヶ谷本町の会田八右衛門家が代々勤めてきましたが、天明元年(一七八一)から大沢町の福井権右衛門家が変わって本陣を勤めるようになりました。
明治になると、参勤交代(さんきんこうたい)の大名行列や日光参詣(さんけい)の大通行がなくなり、往来の旅びとも少なくなりました。そして馬や人にかわって、人力車や荷車が人や荷物を運ぶようになりました。さらに明治二十六年には日光街道を鉄道馬車が走り、続いて明治三十二年には東武鉄道が開通して、越谷は大きく変わっていきました。