毎年夏の終わりごろから秋にかけては、台風の季節といわれています。この台風は大雨や大風をともなって本土をおそいますので、日本のどこかで大きな被害(ひがい)がでています。
江戸時代にも台風による被害が数多く記録(きろく)に残っています。その一つに寛保二年(一七四二)の関東大洪水があります。このときは七月二十七日から八月二日(新暦九月の前後)まで雨が降り続きましたが、八月一日がもっともはげしい大雨でした。この大雨で利根川や荒川その他の川はいずれも満水し、所々の土手が切れて関東一円の大洪水になりました。
このとき綾瀬川通りの越巻(こしまき)村(現新川町)では、水の深さが六尺から七尺(一.八メートル~二.一メートル)にもなり、家の軒下まで水につかったといいます。また西方村(現相模町)などでは、さほどの大水をうけず安心していましたが、雨があがった八月三日の夕方から、にわかに元荒川の水がふえはじめました。驚いた人びとはみんなで元荒川の堤(つつみ)に土俵(どひょう)をつんで水を防ぎましたが、水かさはいよいよ増して土俵を押し流し、田畑に水が流れだしました。土俵をつんでいた人びとは、「これはかなわぬ」とさけびながら家に戻りました。そのときは家の中の家財(かざい)や食料を、安全な場所にあげるひまもないほどに、水がふえていました。このため一年間の食料はもちろん、田や畑にまく種子(たね)もすっかり失(うしな)った家がほとんどでした。
そこで幕府(ばくふ)(武家の政府)では、水害にあった人びとに食料や種子を貸しました。西方村では三七七人の人に一日あたり男二合、女一合のわりで三〇日分の米と、種子用の米が貸しあたえられました。しかし作物が全滅した地域では、幕府からの援助(えんじょ)だけでは足(た)りなかったので、麦や、さといもなどがとれるまでの数か月間は、出かせぎなどに出た人もいました。でも多くの人は、水害復旧普請(ふっきゅうふしん)(堤防などの修理工事)の人足(にんそく)にやとわれ、その賃金(ちんぎん)で冬をすごすことができました。
このときは毛利大膳大夫(もうりだいぜんだゆう)や藤堂和泉守(とうどういずみのかみ)をはじめ、一〇人の大名がこの復旧普請を命じられていました。幕府が大名に工事をやらせることを「御手伝普請(おてつだいふしん)」と呼んでいます。また農民は、幕府や大名の費用で行われる工事には、それ相応(そうおう)の賃金が与えられましたので、これを「御救い普請」とも呼んでいました。この寛保二年の水害には、綾瀬川や古利根川が細川越中守(ほそかわえっちゅうのかみ)、元荒川などが京極佐渡守(きょうごくさどのかみ)など三名の大名が割当(わりあ)てられて工事が進められました。
こうして水害の復旧につとめた結果(けっか)、被害にあった農民も、次の年の農作業にとりかかることができました。わたしたちの先祖(せんぞ)は、このような大災(さい)害にもくじけず、すぐその復旧につとめ、親から子へ、子から孫へと田畑を守ってたくましく生きてきたのです。