梅雨どきの大水

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「梅雨」と書いて「つゆ」あるいは「ばいう」と読みます。梅の実が熟(じゅく)すころに降る雨だからです。また「五月雨」と書いて「さみだれ」と読みますが、これも梅雨どきの雨をさします。昔の暦(こよみ)では今の暦とおよそ一か月ほどのちがいがありましたので、昔の五月は今の六月の梅雨の季節にあたるわけです。

この梅雨のころは、一年を通じてもっとも雨の多い季節です。このため川の水があふれたり堤防が切れたりして水害になることも珍しくありませんでした。今からおよそ二三〇年ほど前の宝暦七年(一七五七)という年は、旧暦の四月から雨天つづきでした。ことに五月(現在の六月)一日から六日にかけては北東の強い風が吹き、夜も昼も水おけをまけるような大雨が続きました。このため日光などの山地では「砂(すな)なだれ」がおこって、家や田畑がうずまった所も少なくありませんでした。

越谷地域でも、利根川通りや権現堂(ごんげんどう)川通りの堤が切れたため、その押水(おしみず)で桜井・新方・増林の各地区は残らず水につかり一面海原(うなばら)のようになりました。でも大相模や越ヶ谷などのように元荒川の西にあたる地域はこのときは無事でした。

翌七日は雨もあがり、青空がひろがったので人びとはほっと一息つきました。ところが突(とつ)ぜん大水が綾瀬川通りを波のようにおしよせてきました。綾瀬川の上流、上瓦葺(かわらぶき)村(現上尾市)にかかっていた見沼代用水の「かけどい」が洪水のためにこわれ、見沼用水の洪水がみんな綾瀬川におちて流れてきたためです。

このため綾瀬川の川ぞいにあたる地域は、みな大水の被害にあいました。でも綾瀬川から少しはなれた越ヶ谷や西方(現相模町)などでは、水がおしよせてくる前に男も女も子供もみんな総出(そうで)で土手をきずきあげ、なんとか水をくいとめることができました。しかしこのように下流の方で土手をきずいたりすると、上流にあたる地域の大水が流れないためその被害は大きくなるばかりです。そこで上流地域の人びとは鍬(くわ)やすきなどをたずさえ、土手を切りくずすため大ぜいで押しよせてくることもありました。そのときには土手を切りくずそうとする人と、それを防(ふせ)ごうとする人びとの対立(たいりつ)が続き、はげしい乱とうになることも珍しくありませんでした。

この宝暦七年の大水のときも、越谷の上流地域で大乱とうがあり、たくさんのけが人がでたといわれます。現在、利根川や荒川の上流では、たくさんのダム(貯水池)がつくられていますので、山地に降った雨が、下流の地域をおそうことは少なくなりました。でも局地的に降る集中豪雨(ごうう)では、今でも、大きな被害をうけることが少なくありません。とくに台風による大雨が心配ですが、梅雨どきの雨も注意が必要であるのは昔と変わりません。

昭和46年の大水