葛西用水路に水が入ると、瓦曾根溜井には満々と水がたたえられます。この水は農業用水で、稲(いね)を育てるにはなくてはならない大事なものです。もし雨が降らなくて水がなくなったときは、大変(たいへん)なことになりますが、このようなことも、長い歴史のなかで少なくありませんでした。このときは水のうばいあいで争いが起(お)こることもありましたが、いよいよというときは、雨が降るようにと神や仏にお祈(いの)りしました。これを「雨乞祈願」といいます。
今からおよそ一九〇年ほど前の寛政六年(一七九四)という年は、春先から雨が少しも降らなかったため、瓦曾根溜井の水がすっかり干(ひ)あがってしまいました。このため田んぼは地割れして、せっかく植えた稲も枯れそうになってしまいました。村の人びとはたいそう困り、雨が降るようにするにはどうしたらよいか相談した結果、大相模の不動さんに一、七日のお祈りをたのむことにきめました。「一、七日」とは、七日間お祈りを続けることです。
こうして村の人たちは、自分たちも鉦(かね)や太鼓(たいこ)をたたき、念仏をとなえながら大相模不動尊の境内に集まり、一心にお祈りを続けました。このときには、越谷・草加・八潮の村々数十か村にわたる人たちが参加したので、たちまち境内は参拝者で一ぱいになりました。しかもこの参拝者は、いずれも新しいさらしのはち巻(ま)きとふんどしをつけ、新しい「わらじ」をはいて参拝しましたので、「さらし」や「わらじ」はどこの店でもたちまち売り切れてしまったといいます。
こうして大相模不動の雨乞祈願がはじまってから、ちょうど満願(まんがん)日にあたる七日目のことです。朝は青空がひろがっていたのに、昼(ひる)ごろから急に空が暗くなり、雷(かみなり)がなりだして大雨が降りだしました。人びとは不動さんのごりやくだと、おどりあがって喜びあいました。その後天気は順調で、その年は豊作だったといいます。
またこのようなひでりの時は、ふつう榛名(はるな)山や板倉(いたくら)(以上群馬県)さまのお水をもらってきて、そのお水を笹(ささ)の先につけ、田んぼ一面にふりかけてから、鎮守(ちんじゅ)のお宮などでお祈りすることが行われました。
今は利根川や荒川の上流にはたくさんのダムがつくられて、水の流れを調節(ちょうせつ)していますが、それでも夏季には飲水に困ることも珍しくありません。水は大切に使わねばならないのは、昔も今も変わりありません。