浅間山の大爆発

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天災(てんさい)は、忘(わす)れたころにやってくるということわざの通り、天災はいつやってくるかわかりません。イザというときに、あわてたり、さわいだりしないよう、天災に対するふだんの心掛けが大切なのはいうまでもありません。

今からおよそ二〇〇年ほど前の、天明三年(一七八三)、信州(現長野県)の浅間山が突然大爆発をおこしました。このため浅間山麓(さんろく)の家や田畑が火山灰でうずまり、多くの人馬が死んだり傷(きず)ついたりしました。この日は旧暦(きゅうれき)で七月六日でしたので、今の暦(こよみ)では八月の初めごろにあたります。

この日浅間山から遠くはなれた越谷の人びとも、〝ごうー〟という音とともに、地震(じしん)のような震動(しんどう)を感じたといいます。人びとはなにごとならんと、驚いて外に飛(と)びだしました。すると西の空一面にうす煙りがたちこめ、白い粉のようなものが降(ふ)ってくるのがみえました。それで庭先に鏡(かがみ)を置いて空から降ってくるものの正体(しょうたい)をしらべた人もありました。すると鏡の上につもったものは、さらさらした灰(はい)であるのがわかりました。

翌日になると地震のような震動はますますはげしくなり、灰がさらさら音を立てて降ってきました。そのうえ空は煙におおわれ昼(ひる)間なのにまっ暗だったため、「あんどん」をともして食事をするしまつでした。人びとは、いったい何ごとがおこったのだろうとびっくりしていましたが、風のたよりに浅間山が大爆発をおこし、人家や樹木や人馬がまっ赤(か)に焼けた土砂とともに押し流され、利根川の流れがこの焼けた土砂でうずまったことを知りました。みんなはどうなることかと、心配で仕事も手につきませんでした。

翌日の八日になっても灰は降りやみませんでした。こうして一面に降りつもった灰はおよそ一センチメートルほどになっていました。これくらいの灰なら田畑の作物もだいじょうぶだろうと思っていたところ、一週間もすると野菜の葉が赤くなって枯れてしまい、お米もふだんの半分もとれませんでした。灰にふくまれていた「いおう」が作物に毒(どく)だったらしいと、人びとはたいそう悲しみました。

これは西方村の『旧記』という本に記録されているお話の一つです。さらにこの年は冷たい夏で、全国的な凶作(きょうさく)となりました。とくに東北地方の作物は全滅し、数えきれないほどの人びとが飢死(うえじに)しました。こうした凶作を「ききん」といって、江戸時代はたいそうおそれていました。

大相模の農家