江戸時代、土地や家を所有(しょゆう)して年貢(ねんぐ)(税金)を納(おさ)める農民(のうみん)を、百姓(ひゃくしょう)とよびました。このほか農業をやっている人でも土地をもたない人は地借(じがり)、土地も家ももたない人は店借(たなかり)とよばれ、身分的にも区別されていました。
地借や店借の人びとは農地を借りて小作(こさく)をしたり、農家の手伝(てつだ)いをしたり、あるいは行商(ぎょうしょう)などの商(あきな)いや、大工・左官(さかん)などの職人かせぎで生活していました。でも村にいたのではそれほど仕事がなかったので、日光街道筋(かいどうすじ)などの宿場(しゅくば)や、江戸へ出かせぎに行く人が少なくありませんでした。出かせぎに行った人のなかには、出かせぎ先で嫁(よめ)さんをもらい、一家をかまえることもありました。しかし一家をかまえても、その日ぐらしの生活がふつうでしたので、主人が死んだりすると、後にのこされた家族はたいへん困ってしまいました。
今からおよそ一三〇年ほど前の嘉永年間(一八四八~五四)のこと、西方村(現相模町)の地借喜助(きすけ)の兄、浜次郎が、家を弟にまかせ江戸へ出かせぎに行きました。お金をためてまた郷里(きょうり)に戻(もど)ろうと思っていたのです。ところが、出かせぎ先で知りあった女の人といっしょになり、男の子が生まれ、貧しいながら江戸で平和にくらしていました。しかし、それから間もない安政二年(一八五五)という年に、浜次郎は無理がたたったのか病気にかかり、養生(ようじょう)のかいなく死んでしまいました。
あとに残された妻は、幼い子供をかかえて働きにも出られなかったので、幼児を浜次郎の実家である西方村の喜助方に預(あず)かってもらうことにしました。でも、この子も病(やま)いにかかりその年の夏に死んでしまいました。知らせをうけた母は驚いて江戸からかけつけましたが、子供のかん病もできずに死なせてしまったと、たいそうなげき悲しみました。幼児のなきがらは、出かせぎ先の江戸で葬(ほうむ)ることができなかったので、喜助方の墓所に埋(う)めてもらいました。跡かたずけを終えた母は、再び江戸へ働きに戻っていきました。子どもをなくした母が、その後どのように暮らしたかはわかっていません。