江戸時代、まえもってお金をうけとり、二年あるいは三年などと期間を定めて奉公(ほうこう)することを年季奉公といいました。そしてこのときの前金を身代金(みのしろきん)といいました。なかでも、まずしい家の子供は、幼いころから身代金で奉公に出されることもありました。奉公に出された子は奉公先の家に住みこんで、子守りをしたり、家事の下ばたらきをしたり、あるいは農業の手伝いなどをしました。奉公中はお金で買われた身なので、自由や我ままは許されませんでした。それで毎日がつらい悲しい日々であったようです。こうしたなかで、なかには年季奉公の途中で体をこわしたりして、実家に帰ることもありました。しかしこのときは身代金を返さねばならなかったので、よほどのことがない限り、たいていは泣きながらしんぼうしました。でも子供の場合は母こいしさのあまり、家に逃げ帰るということも、なかったわけではありません。
文化四年(一八〇七)のことでした。小作(土地を借りて農業をすること)をしながら母娘二人で暮らしていた登戸村(現越谷市登戸)のおあきは、借金でその日の暮らしにも困り、金九両の身代金で娘のおかるを村内の農家へ奉公に出しました。おかるはいっしょうけんめい奉公につとめましたが、まだ幼い女の子でしたので、つらさにたえきれず、母こいしさの一念で家に逃げ帰りました。
おあきは奉公途中であることをさとし、奉公先に戻るようすすめましたが、おかるはどうしても帰ろうとはしませんでした。まだ奉公しなければならない年季は、お金にして金三両ほど残っていたのです。でもこれを返すことができなかったおあきは、奉公先の農家に事情を話し、今住んでいる家をお金のかわりにさしだしてかんべんしてもらいました。
こうして住む家のなくなったおあきは、親類の家に引きとられることになりました。でも娘のおかるは、母といっしょに行くことはできなかったので、ほかの家に引きとられることになりました。一たいおかるはいつになったら、母と一しょに暮らすことができるようになるでしょう。昔はずいぶん悲しい話があったのですね。
しかし今でもめぐまれない人はたくさんいます。このような人たちを思うと、やたらと親に甘えたりすることは、はずかしい気がしますね。