江戸時代は、村落共同体(そんらくきょうどうたい)あるいは生活共同体と言って、農業の仕事やお祭りなどの娯楽(ごらく)、そして日常の生活は、すべてみんなで一しょにやるしくみでした。そして村や町の年貢(ねんぐ)(税金)はもちろん、村や町が平和におさまるようにするのも、村や町全体の責任(せきにん)になっていました。そのうえ村や町の住民のうち生活に困った人がいたときは、みんなして救(すく)うのも当然と思われていました。
安政六年(一八五九)のこと、この年の夏は大雨があって関東一円は大洪水になりました。元荒川通りでも、岩槻の長宮村の土手が切れたため、越谷地域は大きな水害となりました。この関東一円の水害で稲(いね)をはじめ畑の作物は大損害をうけました。そのうえ、このころからさかんになった、外国との貿易(ぼうえき)のえいきょうで、物価はうなぎのぼりにあがり、人びとはたいそう困りました。
なかでも農地をもたない町場の小さな商人や職人、それにだちんかせぎで生活している人びとは、その日の暮らしにもさしつかえるようになりました。お米などがあまりにも高くなって、食料を買うことができなくなったからです。
こうして生活に困った大沢町(現越谷市大沢)の地借・店借(土地や家をもたない人)の人びとおよそ二七〇人は、十月二十八日の夜、大沢町の浅間山に集まりました。このままでは飢死(うえじに)するほかないということで、大沢町の百姓(土地をもっている農民)に、なんとかしてもらうための相談をするためでした。浅間山に集まった人びとは、みんなで相談した結果、生活に困っている家には、一軒あたり金一両を貸すこと、一〇〇日の間お米を安く売ること、という要求(ようきゅう)をきめて、これを大沢町の役人に申し入れました。この申し入れをうけた町役人は、大沢町の百姓一同を照光院に集め、困窮者の要求について相談を進めました。しかし一同はこの要求はのめないとつっぱねました。なかに立った仲介(ちゅうかい)人が、あかあかとかがり火をたいて集まっている浅間山にきてこのことをつげると、浅間山に集まった人びとの代表が、「もしこの要求を聞いてもらえないときは、死ぬほかないので、町のなかの豊(ゆた)かな家をおそって食物をうばう」と答えました。
仲介人は驚いて照光院に戻り、このことを報告して、なんとか話がまとまるよう一同に願いました。こうして、仲介人は幾度も照光院と浅間山の間を往復して交渉(こうしょう)にあたりましたが、なかなか話はまとまりません。その間(あいだ)に浅間山の人びとの中には、町のなかの酒屋や穀屋(こくや)に押し入り、米や酒をねだりとるものもいて、不穏(ふおん)な状態(じょうたい)が続きました。たび重なる交渉のすえ、やっと「困っている人には、一軒あたり金一分(一両の四分の一)をあたえる。また十一月十日から翌年の正月十日までの六〇日間はお米を安売りする」ということで話し合いがつきました。
困っている人に与えるお金や、お米の安売りに必要な救済資金は、大沢町に土地をもっている農民が、その土地の所有の割合によって出しあいました。また越ヶ谷町でも、大沢町と同じく困っている人にお金やお米を与えて救ったので、町の平和を守ることができました。当時は「打ちこわし」といって、生活に困った人びとが大ぜいで、豊かな農家や商家をおそうという暴動が多く、越谷の近くでも発生していたのです。