越ヶ谷雛

175~177/204ページ

原本の該当ページを見る

一月七日(七草)、三月三日(桃)、五月五日(菖蒲(しょうぶ))、七月七日(七夕(たなばた))、九月九日(菊)の日を五節句(せっく)とよんでいます。この日はおめでたい日として、古くからお祝いのお祭りが行われていました。このうち三月三日は「桃の節句」とか「ひな節句」とか、「女の節句」ともいわれています。そしてこの日は、ひな人形をかざり、桃の花をそえて、女の子のすこやかな成長を祝う日だとされています。

ひな人形は、今では七段・八段かざりのごうかなものや、目をみはるような大きなものがつくられていますが、江戸時代には、その大きさもきびしく制限(せいげん)されていました。たとえば天保(てんぽ)十三年(一八四二)の幕府(武家の政権)のお触(ふ)れ(命令)では、ひなや人形の大きさは、八寸(約二三センチメートル)以下のものならその張子(はりこ)にかんたんな色をつけても、人形にそまつな着物をきせてもよいが、八寸以上のものは絶対(ぜったい)にいけない、というような通知が出されていました。それでもごうかな人形がひそかにでまわることもありました。この三月三日の「ひな祭り」が一般(いっぱん)の人びとにもたいそう流行し、あらそってよいひな人形を求めようとする人が、多くなったからです。

さて、今からおよそ二〇〇余年前の安永年間(一七七二~八一)、越ヶ谷新町の会田佐右衛門という人が、江戸の十軒店(じゅっけんだな)というところでひな人形のつくり方をならい、越ヶ谷に帰って節句用の人形をつくるようになりました。これが越ヶ谷でのひなづくりのはじまりで、その後急にひろまり、安政年間(一八五四~六〇)には、ひなをあつかう店が一四軒も軒をならべていました。この越ヶ谷で産出(さんしゅつ)されるひなは「越ヶ谷びな」と呼ばれ、たいそう人気を集めました。これには「ねりびな」「一文びな」「段びな」の種類がありました。

越ヶ谷段びなは、当時さかんであった越谷の桐箱づくりの技術を取り入れ、桐箱のなかにひなをおさめた、どくとくのもので、とくに有名なひなの一つでした。幕府のお達しで大きなものはつくれませんでしたので、この段びなは、きわめて小さなしかも素朴(そぼく)なものでした。それだけに、えもいわれぬあじわいがにじみでている貴重なものです。

江戸時代盛んであった越谷のひな作りは、明治に入ってもさかんであったとみえ、年間二万一三五〇個のひなを産出していました。ところが西洋人形が入り、人びとの好(この)みも変わったため「越ヶ谷びな」はまったく影(かげ)をひそめてしまいました。そしてながい間「越ヶ谷びな」はみんなから忘れ去られ、幻(まぼろし)の人形となっていましたが、最近これが発見されて再び作られるようになりました。

越ヶ谷段びな