寒かった冬も三月に入ると、梅や桃の花が咲きはじめて、春の訪れを知らせてくれます。とくに越谷は江戸時代から桃の名所として知られ、江戸からもたくさんの人が花見にきています。ことに二代目安藤広重(あんどうひろしげ)という画家は、富士山を背景とした大房(現北越谷)の桃を錦絵(にしきえ)に描(えが)いています。
この花見の場所は、大房から大林・袋山にかけての元荒川ぞいと、増林から大吉にかけての古利根川べりの地でした。これらの地は自然堤防の発達したところで砂土が広がり、果樹(かじゅ)の栽培(さいばい)に適(てき)した地でした。古利根川べりの増林の桃林は、今からおよそ二〇〇年ほど前の天明年間(一七八一~八九)に、増林の名主榎本熊蔵(えのもとくまぞう)という人が、村の人びとと力を合わせ、古利根川の河川敷(かせんしき)を開発して植(う)えつけたものといわれます。ただ、この桃林は明治二十三年の関東洪水(こうずい)で、ほとんどが枯れてしまいましたが、この辺りには今でも桃の林が残っており、しらこばとの遊び場になっています。
また大房や大林など、元荒川ぞいの桃林は、いつごろに植えられたものか、はっきりしたことはわかりませんが、『徳川実紀(とくがわじっき)』の編(へん)さん者で名高い、成島司直(なるしまもとなお)という人は、江戸近郊(きんこう)花見の三名所として、杉田(現神奈川県横浜市磯子区杉田)の梅、小金井(現東京都小金井市)の桜、そして越谷の桃をあげています。司直が越谷を訪れたのは文化十一年(一八一四)の二月でした。このとき司直は、神明下村(現神明町)の金沢祐之(すけゆき)という家でもてなしをうけた後、元荒川から小舟にのって花見に出ています。
司直の一行(いっこう)が舟からおりた所は、おそらく大房から大林にかけての桃林の地であったとみられます。そして、この辺り「桃の花ならぬはなし、枝をまじえ陰(かげ)をならべ、岡も野もただ紅(くれない)の雲の中を往来(おうらい)する如(ごと)し」と司直は書いています。また〝見てぞ知る 聞(きき)しはものか 桃の花〟などと句をよんで、その桃の花のみごとさに感嘆(かんたん)していました。
また、江戸小日向(こひなた)町の坊さんで、津田敬順(つだけいじゅん)という人は、文化から文政年間にかけて、江戸近郊(きんこう)の名所旧跡(きゅうせき)をみてまわりましたが、そのときの紀行記(きこうき)を『十方庵遊歴雑記(じゅっぽうあんゆうれきざっき)』という本にしています。このなかで敬順は文化元年(一八〇四)と同十四年(一八一七)、さらに文政八年(一八二五)に越谷を訪れたことを記しています。敬順がこのようにたびたび越谷を訪れたのは、本町の池田屋吉兵衛という商人の親類である池田山鼎(さんてい)という文人と親(した)しかったからです。
このうち文政八年六月の越谷紀行では、池田屋吉兵衛の家でもてなしをうけ、次の日の朝、越ヶ谷から二六町(約三キロ)ほどの大相模不動に参詣(さんけい)し、そこからまた一二町(約一.三キロ)ほどの二十五里(ついひぢ)村にいたったといっています。もっとも「ついひぢ村」は江戸川べりの村(現松伏町)ですが、一二町という道のりからすると、古利根川べりの増林を「ついひぢ」と思い違えたに相違(そうい)ありません。
ともかく、この土地は一里余(約四キロ)の間は桃の木ばかりでほかの木は少ない。江戸伝馬(てんま)町の天王まつりに売られる桃の実は、みなこの土地から出荷されるものといっています。赤く色ずいた桃は、ふつう「草むし」といって、木からもいだ桃を一日か二日、苅草(かりくさ)の中に入れ、むらして色をつけます。しかしここの桃は五月の下旬、桃の木にはしごをかけ、桃の木の葉を、すっかりとりのぞいて実だけにし、これを天日(てんぴ)にさらして赤くします。葉をとったあと桃の実が色ずいたころは、花より美しい眺(なが)めである、というようなことをいっていました。このように江戸時代には越谷の桃はたいへん有名で、たくさんの文人(ぶんじん)が花見に訪れていたのです。