大房浄光寺の古梅園

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大房(現北越谷)の浄光寺周辺(しゅうへん)は、もと「古梅園(こばいえん)」と呼ばれた梅(うめ)の花の名所地でした。もともと、梅の木は古木(こぼく)になると実が少ししかとれなくなるので、古い梅の木は伐(き)りとって、新しい苗木に植(う)えかえるのが普通(ふつう)でした。でも梅の古木は花が美しいので、これを観光(かんこう)用に使おうと、明治三十五年地元の有志(ゆうし)が、伐(き)りとられる梅の古木を、浄光寺を中心とした地に移植(いしょく)して「越ヶ谷古梅園」を開園させました。

このなかには、株(かぶ)まわり一メートル前後の古木もあって、それぞれ木の姿(すがた)かたちで、「天の橋立」・「雲竜梅(うんりゅうばい)」・「日の出梅」などの名がつけられました。園内には休み場所としての「あずまや」が二棟(むね)建てられ、また緋(ひ)もうせんを敷(し)いた床几(しょうぎ)(腰かけ)が二〇脚(きゃく)ほどそなえられました。そして花の季節(きせつ)には数軒の出店が店を開き、写真の「絵ハガキ」なども売り出されました。

このときは東武鉄道が、汽車賃(きしゃちん)(当時は汽車でした)の割引をするなど、越ヶ谷古梅園の宣伝(せんでん)につとめましたので、東京などからたくさんの花見客が訪れました。なかには明治の俳(はい)人(俳句を作る人)として有名な正岡子規(まさおかしき)という人も越谷を訪れ〝梅をみて 野をみてゆきぬ 草加まで〟という俳句をつくったといわれます。また大正五年には文人として知られた大町桂月(けいげつ)も妻(つま)とともに大房の浄光寺を訪れています。このとき桂月の妻は、〝わけ行けば、奥(おく)より奥に奥ありて 果(は)てしも見えぬ梅の花園〟と、その梅園(うめぞの)の規模(きぼ)の大きさに驚いて、これを歌によんでいます。

大正七年、古梅園の経営は浄光寺が引き継(つ)ぎましたが、昭和十年ごろから、東京の文化人や俳人を招待(しょうたい)した東武鉄道主催の園遊(えんゆう)会が開かれるようになりました。この園遊会にまねかれた俳人のなかに、高浜虚子(たかはまきょし)という有名な俳句の先生がいて〝寒けれど あの一むれも 梅見客〟という句をつくっています。この短冊(たんざく)は今でも浄光寺に保存されています。

やがて、戦後の昭和二十一年から同二十三年にかけて農地解放(かいほう)が行われました。このとき浄光寺の梅林も境内をのぞいては、すべて他の人に売りはらわれました。でもしばらくはもとのままの梅園として残され、やはり花見の名所としてたくさんの花見客が訪れていました。そして昭和二十六年から、古梅園の花盛りには、きまって「ハゲ大会」とよばれた光頭会が開かれ、たいそう人気を集めました。このうち、とくべつに人気女優(じょゆう)を招(まね)いて行われた光頭会は映画にもうつされ、ブラジルなどでも上映(じょうえい)されたといわれます。

このように遠く海外まで知られた越ヶ谷の古梅園は、昭和三十六年ごろから区画整理(くかくせいり)が行われ、浄光寺境内を除いた梅林はすべて住宅地にかわりました。それでも浄光寺境内の古梅園は今でもよく手入れがほどこされ、花の季節には梅見の客でにぎわっています。

浄光寺の古梅園(大正期)