江戸時代、大林(大袋地区大林)の元荒川(埼玉鴨場のあたり)には、夏になるとたいそう大きなほたるが数しれないほどあらわれ、群(むれ)をなして飛んでいました。このほたるの群はいくつにもかたまって分かれ、それぞれ手まりほどの大きさの火の玉となって飛びかいました。この火の玉は、川の流れにふれると四方に散乱(さんらん)しましたので、まるでほたるの戦争だとひょうばんでした。人びとはこれを「ほたる合戦」と呼んで、遠くから見物にくる人もいました。
このうわさを聞いた、江戸小日向(こひなた)の坊さんである津田敬順(けいじゅん)という人が、文政八年(一八二五)の夏、友だちをさそい、ほたる見物のため越ヶ谷宿本町の池田屋吉兵衛方を訪れました。吉兵衛は敬順とはかねてからの知り合いでしたのでたいそう喜び、風呂(ふろ)をたてたりごちそうをつくったりして、敬順ら一行をもてなしました。
やがて日ぐれになったころ、吉兵衛がよい場所を案内(あんない)しましょうと、吉兵衛の家からおよそ五町(約五五〇メートル)ほど歩き、すでに腰かけやちょうちんが用意された大林の元荒川の河原に一行を案内しました。日がくれて暗くなると、両岸のくさむらから四つ五つほどのほたるがきらりとひかりました。これを合図に、その前後三、四町ほどの川面(づら)から数万匹とも数しれないほたるが、一せいにあらわれました。ほたるは手まりほどの大きさにかたまり、火の玉となって飛びかいましたが、うわさにたがわず、川風に吹きつけられるたびに四方に散乱し、人びとの目をみはらせました。
これを見た敬順は、大林のほたるは、宇治川(京都市内を流れる川)のほたる合戦と同じようだといって、その見事さにびっくりしていました。こうして元荒川の河原で、納涼(のうりょう)をかねたほたる見物をする敬順らは、吉兵衛の家から運(はこ)ばれてきたごちそうを食(た)べながら、にぎやかな酒宴(しゅえん)をひらきました。そこを通る土地の人びとは、この酒宴の様子を立ちどまって見る人もなく、また悪口をいう人もいなかったので、心しずかにほたる見物を楽しむことができたといっています。
ほたるは、越谷でも戦前までは珍(めずら)しいものではありませんでしたが、農薬(のうやく)の散布(さんぷ)や都市化のえいきょうで、最近ではあまりみられなくなりました。でも、ほたるが遊ぶような自然をとりもどしたいというねがいは、私たちの、大きな夢の一つです。