孝子文太郎

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江戸時代、越ヶ谷町に文太郎という人がいました。生まれてすぐに父が死んだので、文太郎は母の手一つで育(そだ)てられました。文太郎には、〝りよ〟という姉がいましたが、もともと貧しい家でしたので、母は文太郎を背負い、りよの手をひいて日やといかせぎをしながら暮(く)らしを立ててきました。

文太郎が一二、三歳になったとき、姉は子守奉公に出され、文太郎も年季奉公に出るのをすすめられました。でも文太郎は母のそばを離れるのはいやだといって、母の日雇いかせぎの手伝いなどをしていました。そのご、事情があって越ヶ谷町の商家に年季奉公することになりましたが、母が年老いてからは、主人のゆるしをもらって、夜は家に帰り、朝晩の食事の用意をしたり、寝起(ねお)きの始末(しまつ)をして母の介抱(かいほう)につとめました。

こうしたとき、奉公先の商家が火災にあったため、文太郎はひまをとって家に帰り、それからは日雇いかせぎをしながら母の面倒(めんどう)をみていました。その間(かん)に、姉は他家へ嫁(よめ)に行きましたので母一人子一人の生活をおくっていましたが、文太郎三〇歳のとき人のすすめで嫁をもらいました。しかし母と嫁の仲がうまくいかないのを心配し、間もなく嫁を離縁(りえん)しました。それからはどんなに嫁をもらえとすすめられてもみんなことわり、ずっと独身(どくしん)でとおしました。

しかし、嫁がいないと、母の面倒は嫁のかわりに文太郎がしなければなりません。でも、日雇いかせぎでは、朝早くから夜おそくまで仕事をしなければなりませんでした。このため文太郎は母の面倒が行きとどかないのをいつも嘆(なげ)いていました。これを知った越ヶ谷宿の役人は、一年に金三両一分の給金をもって文太郎を「御伝馬(おてんま)人足」にやといました。そして早出や残業などはさせないようにしました。こうして文太郎は、毎朝母に食事をとらせ、そのあとかたずけをしたあと、問屋場(といやば)(宿の役所)に出勤(しゅっきん)しました。夕方も早く帰ってきて、母がなによりも楽(たの)しみにしている銭湯(せんとう)へつれていきました。もちろん貧(まず)しい暮(く)らしでしたので、自分はぼろをまとい、そまつな食事をとっていましたが、母には毎晩好(す)きな酒をすすめ、好きな食物をそろえて少しも不自由をさせませんでした。そのうえ毎月父の命日(めいにち)には、越ヶ谷の天嶽(てんがく)寺まで母を背負(せお)い、父の墓参りをかかしませんでした。

こうした文太郎の、ながい間少しもかわらない孝心は、近隣でもっぱら評判(ひょうばん)になっていました。それが幕府の耳に入り、文政十年(一八二七)八月、老中(ろうちゅう)(今の総理大臣のような役)水野出羽守(でわのかみ)の達しで、黄金(おうごん)五枚、それに母が死ぬまでの養老(ようろう)手当として、一日米五合がごほうびとして支給されました。ときに母が八八歳、文太郎が五〇歳のときのことでした。いまさら親孝行の話などと思われますが、今でも決して悪い話ではないはずです。

文太郎の画賛