大沢町の杢次郎

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大沢町に秦野(はたの)杢(もく)次郎という人がいました。杢次郎は天保二年(一八三一)に大沢町上宿(かみじゅく)の畳屋(たたみや)さんの家に生まれました。幼(おさな)いときからすなおな、かしこい子で親のいうこともよくききました。八、九歳のころからは妹をおぶって家の手伝いにはげみましたが、そのかたわら、ひまをみては大沢照光院(しょうこういん)に開かれていた寺子屋にかよい「よみ・かき・そろばん」をならいました。

「よみ・かき」をならった杢次郎は、それだけで満足せず、家業の手伝いで父からもらうこずかいを、毎月古本屋にあずけておき、お金がたまったところで、学問に必要な本を買って勉強(べんきょう)しました。やがて杢次郎は畳屋の職人として一人前になった二〇歳(はたち)のころ、悪い友だちにさそわれて夜遊びするようになり、夜明けごろ家に帰ってくることも珍(めずらし)しくありませんでした。これを心配した父母が強く「いけん」をしたところ、杢次郎はすぐに悪かったとさとり、それからは親のそばを離れず、日夜家業にはげみ、学問もおこたりませんでした。

杢次郎が家業のかたわら学問をしたのは、出世(しゅっせ)をするためでなく、みんなの為(ため)になる、りっぱな人間になるためだといっていました。事実、杢次郎は、町内にあっては消防組の役員や、町内の役員などをつとめ、洪水(こうずい)のときや地震(じしん)のときは、まっさきにかけつけて多くの人を救いました。また困(こま)っている人の相談相手となって面倒をみたりしましたので、みんなからたいそう信頼(しんらい)されました。

杢次郎のかげひなたない、まじめな人がらは、町内ばかりでなく近隣(きんりん)の人たちの評判にもなっていました。明治四年九月、小菅知県事(こすげちけんじ)河瀬外衛(かわせがいえい)という人がこれを知り、大沢町の宿屋玉屋彦右衛門方に来て、杢次郎を呼びよせました。そしてながい間にわたる数々の善行(ぜんこう)をほめ、ごほうびとして金一封(いっぷう)と賞状を杢次郎に手渡しました。さらに明治五年には、埼玉県令野村盛秀(このとき小菅県はなくなり大沢町などは埼玉県に属しました)から、また明治七年には、埼玉県令白根多助から、同じようなほまれの表彰(ひょうしょう)をうけました。

学問とは、出世のためのものでなく、人のためになる立派な人間になるためだという、杢次郎の考え方がみのったわけですね。