桜井地区の子供たちは、最近まで上間久里には人魂が出るということを本当に信じていました。人魂とは丸いほのおをもやし、細長い尾をひいて飛んでゆく火の玉で、死んだ人の「たましい」であるといわれます。上間久里の人魂は、とくに五月から六月にかけて多く飛んだといわれます。それで子供たちは夜遊びをすると、よく親たちから「人魂にさらわれるぞ」と言われました。子供たちはそういわれただけで、わけもなくこわがっていたといいます。
でも小学校も五、六年生ごろになると、人魂の正体が、何であるのかわかるようになりました。でもそれを弟や妹にはだまっていました。人魂をおそれるという、そぼくな夢をこわさないのがよいと思ったからです。この人魂の正体は、じつは「どじょう」をとるため田んぼに、道具を仕掛(しか)けに行く人のランプの灯(あか)りでした。当時日光街道にそった上間久里は、八軒茶屋といわれた所で家も少なく、しかもその先は恩間(おんま)新田から大竹・大道・三野宮の集落(しゅうらく)までひろがる一面の水田地で、夜はことにさびしい所でした。
それで夜になると、暗い田んぼの上をゆらりゆらりとゆれながら流れていくランプの灯が人魂のように見えたのです。子供が大きくなって、人魂の正体がわかってきたとき、それを親にいうと、親は〝ランプの火のほかに人魂も本当にあるんだよ〟と言いました。そのときはそれも本当だと思いこんで大人(おとな)になってきました。そう思うだけの自然の神秘(しんぴ)さが当時上間久里には残っていたからです。
でも今は緑の深い林や、一面にひろがる田畑が住宅地などになり、昔ながらの自然が失われてきました。そして自然のこわさより、むしろ自動車や電車がこわい世の中になり、「人魂」も「どじょうとりの灯(あか)り」も、今はなつかしい思い出ばなしの一つになってしまいました。