蒲生一丁目の旧日光街道ぞいに、怪鳥(かいちょう)のような「かっぱ」のような、えたいの知れない形をした石塔が建てられています。その台石には「砂利道供養(じゃりみちくよう)」とあって、宝暦(ほうれき)七年(一七五七)の年号と、この石塔を建てた、たくさんの人の名がきざまれています。
この石塔は、この年に日光街道の大修理(しゅうり)が行われ、道に砂利がしかれたのを記念して建てられたものでしょう。土地の人はこれを「ぎょうだいさま」といっていますが、「おかまさま」または「ぎょうじゃさま」とも呼んでいます。もとは「わらじ」などがつねに供(そな)えられていたといいますので、これは道路の神様で、旅をするときに足を痛めないよう、道中の安全を祈って建てたものでしょう。
また日光街道ぞいにあたる現在の蒲生公民館のかたわらにも、同年代の四角い石塔が建てられています。この塔の正面には「これより北、長さ三〇〇間の場所、常州茨城郡(じょうしゅういばらきぐん)神山勝秀(かみやまかつひで)」とあって、その横面には「此内一〇間の場所野州芳賀(はが)郡染谷(そめや)長俊(ながとし)寄附(きふ)」ときざまれています。したがって、この石塔も宝暦七年の日光街道の道路工事に、三〇〇間(約五四〇メートル)にわたる道路工事の費用を寄付した神山と染谷という人が、それを記念して建てたものでしょう。これからみても、当時の道路工事には、大勢の人がよろこんで協力していたことが知れます。道路は人間が歩く道であったからです。
また昔の人びとは、道路をはじめ、橋でも川でもすべて生きものとしてみていたので、道などもけがれないようにいつもきれいに、そして歩きやすいように手入れしていました。ことに大里村(桜井地区大里)の名主兵左衛門は、大里の日光街道をよく手入れして、雨のときでもぬかるんで歩きにくいということがないようにつとめていました。これが幕府(ばくふ)の耳に入り、文政六年(一八二三)、時の老中(幕府の最高の役人)水野出羽守から代官大貫次右衛門に対し、兵左衛門をほめとらすよう申し渡していました。
今でも道路はわたしたちの生活にとって大切なものであるのは、昔と変わりませんが、せまい道にも自動車が入ってくるようになってしまって、人びとが安心して歩くことができないほどです。「ぎょうだいさま」は、これをどうみていることでしょう。