庚申塔

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古くからの街道すじや野道、あるいは寺院や神社の境内には、次のぺージの写真にあるような形の石塔をよく見かけます。この写真の石塔には上の方に太陽と月、その下に手が六本の、人間の形をした神の像(ぞう)が、同じく人間の形をした鬼の像をふみつけている姿がきざまれています。この六本の手をもった像を「青面金剛(せいめんこうんごう)」、ふみつけられている像を「天(あま)のじゃく」と言います。そしてその台石には「みざる」「きかざる」「いわざる」という三匹の猿がほられています。これを庚申塔とよんでいます。なかには文字で庚申塔、あるいは青面金剛ときざんだものもあります。

この庚申塔の庚申とは昔の暦で、たとえば今日は「うまの日」だ、「たつの日」だとか、あるいは今年は「さるの年」だ、「とりの年」だというように、日や年を十二匹の動物にあてはめて呼んでいます。これを「十二支(じゅうにし)」といって、十二日あるいは十二年ごとに一回転するようにしくまれています。そのうえに十干(じっかん)といって「甲乙丙丁」など十の干を「十二支」に組み合わせると、六〇日あるいは六〇年に一回まわってくるしくみになります。これを「えと」といいます。

このうち庚申(かのえさる)の日は、人のなかにすみついている庚申の神様が、その人が寝るのをまって天にのぼり、天の神様に、その人の悪いことを、すべていいつけるという信仰(しんこう)が古くから中国にありました。そこでこの日は一晩中寝ないで夜を明かすというならわしでした。このならわしは日本でも古くから貴族(きぞく)の間にひろまっていました。江戸時代になると越谷の人びとのなかにも、庚申信仰がひろまりました。そして村の人たちは、この日お堂などに集まり寝ないで夜を明かしました。

でも時代が下がるにつれ、この庚申の日は夜おそくまでみんなで食事をしたり、話し合ったりする娯楽の日になっていきました。こうして庚申の信者が集まって、たくさんの組織(そしき)がつくられました。これを「庚申講」といいます。そしてこの庚申の信仰は、娯楽のためばかりでなく、現世(げんせ)の利益(りえき)にもむすびつけられました。すなわち、庚申様をよくおがむとくらしが豊(ゆた)かになる、智恵(ちえ)がさずかる、出世ができる、長生きができる、子孫が繁昌(はんじょう)する、火災や盗難にかからない、病気にならない、などというもので、庚申信仰はますます盛んになりました。

こうしたなかで何かの機会(きかい)に、みんなでお金を出しあって庚申の集まりの記念に庚申塔を建てました。この庚申塔は、越谷市内だけでも四〇〇基ほど確認されていますので、いかに庚申信仰が盛んであったかがわかります。明治になりますと、神仏の分離令(ぶんりれい)がだされ、神社の氏子制度(うじこせいど)ができましたので、庚申信仰は下火になっていきました。

これら残された庚申塔などをしらべ、わたしたちの先祖(せんぞ)がどのような信仰をもち、どのような生活をしてきたかを考えてみるのも郷土学習の一つでしょう。

庚申塔(中島)