夏になると、夜のたのしみの一つに花火があります。近ごろ再開(さいかい)された東京の「両国の花火」をはじめ、各地で盛大な花火大会が開かれ、花火を見に行く人もたいそうふえているようです。このような花火大会は、江戸時代もたいへん盛んで、わたしたちが想像(そうぞう)している以上に大じかけなものでした。
今からおよそ二四〇年ほど前の寛保(かんぽ)三年(一七四三)七月十日、この日はちょうど、大沢町の真言宗弘福院の本尊である観音さまのお開帳(かいちょう)(とびらを開いて仏さまをおがませること)日にあたっていました。このとき、大ぜいの参拝者のため弘福院裏の田んぼの中で花火大会が開かれました。宵(よい)のうちから数々の打ちあげ花火があげられ、やがてよびものの仕掛(しかけ)花火がはじまりました。
この仕掛花火は、当時芝居などで人気があった、八百屋(やおや)お七のうちの名場面をとりあつかったものです。すなわち、娘のお七が小姓(こしょう)の吉三郎に、ひそかにあいに行く場面で、これをうつしだすため、空中に綱が張られ、このうえを花火でつくったお七が走(はし)っていく仕掛けになっていました。ところがお七をかたどった花火の火が、弘福院のかやぶき屋根に飛んでもえだしました。しかしそこにいた男たちが早速(さっそく)屋根にのぼって火をもみ消しましたので、人びとは安心し、花火を楽しんでからみんな家に帰りました。
でももみ消したはずの屋根の火はすっかり消えていなかったとみえ、夜なかに大火事となって、弘福院は全焼してしまいました。このときの花火の主催(しゅさい)者(行事の責任者)は、大沢町の島根大蔵(だいぞう)という人でした。この人は火災の責任を感じ、金一〇〇〇両という大金を出して、前よりりっぱなお寺を建てました。こうしてお寺を建てなおした島根大蔵は、みんなと相談のうえ、延享(えんきょう)五年(一七四八)弘福院境内に、寺院再建の記念として大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)を奉納しました。そのご天明四年(一七八四)という年に、弘福院は再び火災で全焼しました。でも石でつくられた宝篋印塔は焼けなかったので、今でも昔のままに残されています。
このように石塔一つをとってみても、それぞれの歴史的な由緒(ゆいしょ)が秘(ひ)められています。わたしたちは今後郷土の歴史を明(あき)らかにするため、こうした秘められたことがらを少しずつでも調べていかねばならないと思います。それはともかく、わたしたちは、花火をするときには、火事や、けがに十分注意することが大切ですね。