越ヶ谷を流れる元荒川(もとの荒川)は、古いころは越ヶ谷御殿町からそのまままっすぐ天嶽寺(てんがくじ)や久伊豆神社のわきを流れ、花田をぐるりと廻って東小林(現東越谷)の東福寺わきにでて、それから、瓦曾根の方に流れていました。この流路(りゅうろ)は江戸時代のはじめ、天嶽寺前から東福寺前にかけて直道(ぢきどう)が掘られたため、古川となりましたが、のちに水田に開発(かいはつ)されました。
この古川のうち、花田のはずれ増林との境(さかい)(現在新方川が境になっています)にあたる堤の上に、地蔵さんによくにた石の供養塔(くようとう)が立てられています。花田の人びとは、これを「スマッカラのお地蔵さん」とよんで大事にしています。「スマッカラ」とはどのようなことか不明です。言い伝(つた)えによると、まだ元荒川が花田をまわって流れていたころ、この石の地蔵さんが舟に積まれてどこかに運(はこ)ばれようとしていました。その途中花田のはずれまできたとき、どうしたわけか舟が急に動かなくなりました。そこでしかたなくこの地蔵さんを舟から上げて堤(つつみ)の上にお祀(まつり)したといいます。
でもこのお地蔵さんのせなかには、源海(げんかい)という人の三三回忌の供養(くよう)のため、これを造立(ぞうりつ)したときざまれていて、承応四年(一六五五)の正月二十六日という日付けがつけられています。ですからこれは源海という人の姿をきざんだ供養塔であるにちがいありません。その姿かたちからみてこの源海という人はお坊(ぼう)さんでしょう。しかし花田の人びとは、昔からお地蔵さんとよび、子供を守ってくれる仏(ほとけ)として花や線香(せんこう)をそなえてきました。
こうして三二〇年以上にわたる気の遠くなるようなながい年月(としつき)、このお地蔵さんは、花田の人びとと親(した)しくおつきあいをしてきたわけです。越谷は現在住宅都市としてどんどん変わってきています。花田もやがてすっかり変わっていくことでしょう。花田の古川堤の上に、今でも立っているスマッカラの地蔵さんはどんな思いでいるでしょう。身をすりよせてたずねると、あるいは何かを語ってくれるかもしれません。