江戸時代、旅(たび)びとや物資の輸送(ゆそう)は、陸上では主(おも)に人や馬にたよっていましたが、明治になると、人力車(じんりきしゃ)や大八(だいはち)車が利用されるようになりました。そして明治二十六年二月には、千住から粕壁(かすかべ)までの日光街道に軌道(きどう)(線路)がしかれ、馬が箱車をひく馬車鉄道が開通しました。これを千住馬車鉄道といいます。
つづいて明治三十二年八月には、蒸気(じょうき)機関車を使った東武鉄道が北千住から久喜(くき)まで開通しました。その距離(きょり)は四〇キロメートルで、片道の運賃は三三銭、当時としては相当高い運賃だったようです。この間(かん)の停車場(ていしゃば)(駅)は、北千住を発着点として、西新井・草加・越ヶ谷(現北越谷)・粕壁・杉戸・和戸・久喜の八停車場でしたが、同年十一月には、新田(しんでん)・蒲生・武里の停車場が開設(かいせつ)されました。
その後、東武鉄道は業平(なりひら)(現墨田区)を発着駅としましたが、明治四十三年には、伊勢崎までの全線が開通、昭和四年には杉戸(現東武動物公園)から分かれた日光線の全線が開通しました。さらに昭和六年には浅草松屋デパートが完成し、浅草雷門駅が東武鉄道の発着(はっちゃく)駅(ターミナル)になりました。
その間、大正九年には、越ヶ谷駅(現越谷駅)が開設されました。それでそれまで越ヶ谷駅と呼ばれていた現北越谷駅は、このとき武州大沢駅と改称されました (北越谷と改められたのは昭和三十一年のことです)。また大正十五年には大袋と一ノ割の駅が新設されました。そのころから電化が進み蒸気機関車から電車に切りかえられていきました。
ついで昭和三十七年には、地下鉄日比谷線が北越谷駅と人形町の間を走るようになりました。この東武鉄道と営団地下鉄の相互乗り入れが、越谷の都市化を早めたともいわれます。ついで昭和四十二年には大袋と武里両駅の間に、せんげん台駅が設置(せっち)されました。ついで同四十八年四月、越谷市の出羽地区・蒲生地区・大相模地区を横断する国鉄武蔵野線が開通し、越谷には南越谷駅が開設されました。つづいて四十九年七月、武蔵野線との乗りかえ駅として東武鉄道に新越谷駅が新設されました。これで市内には七か所の駅が設けられたことになります。
このように、越谷には数多くの駅が設(もう)けられ、鉄道の便はたいへんよいようです。でもいまのところバスの便があまりよくないことと、自動車のじゅうたいがはげしいことで、必(かなら)ずしも道路の便はよいとはいえないのが実情(じつじょう)のようです。