昭和二十年八月十五日、長い間にわたる戦争は日本の敗戦(はいせん)によって終戦を迎えました。その直後アメリカ軍(連合軍)の飛行機が、もうばくだんを落(お)とすこともなく、屋根すれすれに越谷へも飛んできました。おそらく日本の町や村の様子(ようす)を見るためでしょう。
このとき県立越ヶ谷高等女学校(現在の越ヶ谷高等学校)の女子生徒一同が、二階の窓から体をのりだし〝ワーッ〟とかん声をあげながら飛行機に向かって手をふりました。長い苦しかった戦争が終わった喜びをかくしきれなかったのでしょう。校庭でこれをみていた先生は、足音荒く二階にかけ上ってくるなり〝馬鹿者ー日本刀でぶった切ってやるぞ。家を焼かれ親兄弟を戦争でうしなった人が大ぜいいるのに、敵に向かって手をふるとは〟と大きな声でどなりました。戦争にまけたくやしさと、アメリカに対する憎(にく)しみでいっぱいだったのでしょう。その眼には涙がひかっていました。当時の日本には終戦を喜ぶ人と、敗戦を悲しむ人がいたわけです。
それから間もなく、日本全国にアメリカを中心とした連合軍が進駐(しんちゅう)してきました。そして十月十一日には、数百人のアメリカ兵が荻島飛行場(現在の県立しらこばと水上公園のあたり)にやってきて駐屯(ちゅうとん)しました。この駐留(ちゅうりゅう)兵は、越ヶ谷や大沢にでてきては、言葉がわからなかったせいもあって、町の人たちと争いをおこしていました。また越ヶ谷女子高等学校へもやってきました。それはバスケットボールを借りたいという口実(こうじつ)ですが、先生が、そのつどうまく応待(おうたい)して、学校には入れませんでした。
でも、もっとも困(こま)ったことは、鉄砲(てっぽう)でやたらに鳥をうち落とすことです。いつ流れだまが飛んでくるかわからない状態で、たいへん危険だったのです。この鳥類乱かくのため、越谷の名物であったしらこばとが急に減ってしまったといわれます。幸い越谷の進駐軍は、間もなく久伊豆神社の境内に山とつんであった、河川用の細長い小舟を運び去るとともに、兵隊も引きあげていきました。
これは越ヶ谷高等学校の『記念誌』にのっている先生や生徒の思い出話の一つです。みなさんはまだ生まれていなかった時ですが、父母や祖父母は戦時中から戦後にかけて、食べる物もなく着る物もなく、どうしたらよいかわからないほどの苦しみをしてきました。しかしそれにもまけず、わたしたちの町や村をたて直してきたのです。みなさんは、今のうちに当時の思い出をお父さん、お母さん、おじいさん、おばあさんから聞いておくとともに、平和とは、どれほど大事なものかを考えてみるといいですね。