支配

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 中世末から近世初頭にかけて、越谷地域の実情はどうであったか、この点を明らかにしてくれる現存史料は遺憾ながらきわめて少ない。わずかに〔一〕~〔六〕の徳川家康が関東に入部する以前の文書によって、当地域が岩槻の太田氏、小田原の北条氏の支配下にあったことがたしかめられる程度である。〔一〕〔六〕に見える四条、〔二〕の柿ノ木は、越谷とその周辺地域の地名である。〔二〕〔五〕の大相摸不動坊は現越谷市西方の大聖寺のことである。〔四〕の岩付衆中村右馬助は、後出〔五〇一〕の麦塚中村家家譜に朝武(天正十七年十月廿五日歿)とある人物である。

 〔七〕は、徳川家康が在地土豪会田出羽資久に屋敷地一町歩を下付した際の、伊奈備前守忠次差添状である。近世的な体制の形成過程において、徳川家康が当地域の在地土豪をいかに掌握していったか、その一端を知り得る好史料である。この会田出羽家は、会田家系図によると、信州の出身であるという。「徳川実紀」によると、資久の一族庄七郎資勝は徳川家康の近習に登用されていたが、慶長十二年(一六〇七)二月、相州中原の旅宿で宿直の際、金の茶釜や茶器類の盗難をうけ、掛川の本多家にお預けの身になった。その後慶長十五年二月当の盗人が捕えられたので、当時宿直の同僚二名とともにその罪を許されたとある。しかし会田家系図および「寛政重修諸家譜」所収の同家系図には、庄七郎資勝の名は除かれている。また資久の孫小左衛門資信は、寛永元年(一六二四)三代将軍家光の小姓役に登用され、以後五〇〇石取の旗本会田家の祖となった。一方越ヶ谷に土着した会田出羽家及びその一族は、越ヶ谷宿成立にともない、それぞれ名主・問屋・本陣等の要職を占めた。こうした事歴からも、越ヶ谷会田家は中世来の特殊な家柄であったことが推察される。

 〔八〕~〔一二〕および〔一四〕は、五代将軍綱吉のかの有名な生類憐みの令にかかわる触の請書である。この法令がいかに徹底したものであったか、また庶民がこれによりいかに迷惑したかは、これらの文書によっても推測することができよう。なお元禄九年(一六九六)に越ヶ谷領大間野村の沼に、丹頂鶴を放飼している事実が注目される。

 〔一三〕〔一五〕は、関東郡代伊奈忠篤と、七代将軍家継死去の際の触書である。いずれも伊奈家臣の名で通達されているが、享保元年の〔一五〕の文書に会田七左衛門の名が見える。これは近世初期に越ヶ谷領七左衛門地区を開発した神明下村の会田家の子孫であり、享保期には伊奈家臣に登用されていたことが確認される。

 〔一六〕は、郷手代の廃止廻状である。それまでは在地の有力者を伊奈家の郷手代に登用し、年貢諸役の徴収等を請負わせていたとみられるが、この郷手代の廃止は、伊奈家の農政の変化を示す一つの注目される史料といえる。

 〔一八〕〔二〇〕は、文化八年(一八一一)代官山田茂左衛門のあとをうけて、越谷地域に赴任した吉岡次郎右衛門の代官所廻文である。代官吉岡は、士農工商の身分秩序の維持や、年貢増徴に関し、しばしば独自の通達を出しているが、この史料もそのなかの一つである。忠実な幕府官僚としての代官吉岡の一面が、この廻文からも窺うことができよう。

 〔一九〕は、砂原・後谷両村を始め六ッ浦藩領村々に宛てられた六ッ浦藩主米倉家の雑用金一か年仕訳書である。財政窮乏にあえぐ米倉家は、領分村々へ借財を申入れるに当り、米倉財政の内情を披歴してその協力を求めている。これに対し村々惣代は条件を付し、なお村民の諒解を求めるまでの猶予を願っている。

 〔二一〕は、忍藩領東方村名主中村氏が書留めた御用留の抜書である。文政六年(一八二三)白河藩に転封した阿部家に代って、松平家が忍藩主となった。本史料はその文政六年から天保二年(一八三一)に至る松平家の諸通達を主に収めている。当時の越谷地域における忍藩領分は、現草加市の青柳・柿ノ木村を含め、東方・見田方・千疋・南百・四条・別府の八か村で、通称柿ノ木領と呼ばれ、総石高は五〇〇〇石余である。この通達書には、松平家による行政措置などが示されているが、なかには忍藩の通達に対する村民の訴願や、村役人任免の通達なども収められており、忍藩松平家の領地支配の一端を知ることができる。

 〔二二〕は、七左衛門村旗本五給所の寄高帳である。七左衛門村は元禄一一年(一六九八)、村高一一一〇石のうち四八四石余が旗本五人に分給され、残りは幕領となった。本史料はこの五給所の百姓それぞれの所持石高をあらわしている。これによると、幕府直轄領に石高を所持する百姓がまたそれぞれの旗本知行所に石高を所持する者もあり、多給村の実態や、旗本知行の在地構造を知るうえでの好史料である。