徳川家康の関東入部以来、大久保長安等と共に代官頭となり、治水や民政に活躍した伊奈家は、伊奈半十郎忠治の代、三〇万石余の領域を支配する関東郡代職世襲の家として定着した。半十郎忠治は、伊奈忠次家二代忠政の弟であり、天正十九年(一五九一)の生れ、はじめ勘定方に勤め八〇〇石の知行をうけた。寛永十九年(一六四二)八月、勘定方勤務を免ぜられ新たに足立郡赤山領七〇〇〇石を拝領、赤山に陣屋を設け関東郡代職になる。したがって、正確に言えば伊奈忠治は伊奈忠次家の別家ということになる。その子半左衛門忠克の代、知行地のうちを弟二人に分知、以後代々三九六〇石を知行する旗本となった。この伊奈家は、関東郡代職として三八〇名余(寛政期)の家臣をかかえ、徳川家臣団の中では大名に匹敵する名門中の名門といわれた家柄である。とくに関東幕領の治政に深く関与し、関東農民への影響力が多大であったのは周知のことである。しかし寛政四年(一七九二)、伊奈忠次から十二代、伊奈忠治から十代にあたる右近将監忠尊の時、家中に騒動が起りついに伊奈家は改易となった。
本項には、伊奈家家臣であった大川戸の杉浦家に伝存する、この伊奈家改易関係史料を主に収めた。伊奈家改易事件は、従来不分明な点が多かっただけに、その真相を伝える杉浦家文書はきわめて貴重なものといえよう。伊奈家家臣杉浦氏の祖は、濃州竹が鼻城主杉浦定元の長男で定政という。戦国のならいとて、杉浦家の存続を配慮した父定元は、次男定孝を豊臣方に、長男定政を義兄弟の関係にあった伊奈忠次に託して徳川方につかせた。慶長五年(一六〇〇)八月、竹が鼻落城に城主定元と定孝は討死したが、定政は関東にあり、伊奈忠次の下で代官を勤め杉浦家を存続させることができたという。
〔二四〕は、杉浦家に伝わる徳川家康直筆の坪割書である。慶長五年八月、会津の上杉討伐のため、野州小山に陣した家康は、石田三成挙兵の報に急ぎ江戸に戻った。途中利根川(現古利根川)を舟で葛西に下った家康は、松伏領大川戸に立寄り、当地に陣屋御殿を設営することを命じた。史料はその際家康みずから筆をとって屋敷の坪割を示した書付である。命をうけた伊奈忠次は、急拠大川戸に陣屋御殿を建設したが、その規模と概観は、元禄八年(一六九五)の幕領総検地の際、杉浦家から検地役人に提出した〔二五〕の図によって知ることができる。この陣屋御殿は、家康が使用しないまま伊奈忠次に預けていたが、その後杉浦氏が拝領することになった。
杉浦家由緒書控〔三一〕によると、慶長十三年(一六〇八)下総国舟橋の意富日皇太神宮再建の際、杉浦定政の屋敷地がその用地にあてられた。このため伊奈忠次の口添により、その代替屋敷として大川戸の陣屋御殿が定政に下賜されたという。元和五年(一六一九)八月、父忠政に続き伊奈忠次家三代を継ぐはずの熊蔵が九歳で歿したため、伊奈家所領小室一万石は上知となった。このため、伊奈忠次家に仕えていた杉浦氏は浪人となり大川戸に遁世した。大川戸の屋敷地は、前記のごとく由緒あるものであったから、寛永四年(一六二七)さらに延宝二年(一六七四)の検地の際にも、除地(無年貢地)の扱かいであった。しかし元禄八年の検地には、当時の杉浦家当主が願い上げ、再検地のうえ年貢地にしたという。その後享保十五年(一七三〇)五郎右衛門勝明の代に再び伊奈家に仕官、以後三代にわたり伊奈家家臣として民政に活躍した。とくに勝明の子五太夫勝定は番頭役に昇進し、伊奈家家臣の中にも信望があった。したがって、寛政二年(一七九〇)からの伊奈家騒動にも、野村藤助・会田七左衛門とともに、その中心的な存在であった。
〔二六〕〔二七〕は伊奈家の家臣である杉浦五郎右衛門勝明が、伊奈家重役に提出した養子願・隠居願であり、〔二八〕は同じくその子五太夫勝定の当役御免願である。
財政窮乏に喘ぐ伊奈家は、安永三年以来幕府から一万五〇〇〇両を預り、これを貸附資金に運用して利金を得ていた。この預り金の返済期限が寛政元年(一七八九)であり、伊奈忠尊が返済期限をさらに二〇か年延期するよう願い出たのが〔二九〕の文書である。〔三〇〕はこれに対する幕府の返答書で、忠尊の願いを拒否し、三か年の分割返済を命じている。伊奈家に対する幕府のこの容赦ない措置は、勲功を誇る忠尊にとり不満だったのは事実であろう。
本来伊奈忠尊は板倉家の出身であり、安永六年(一七七七)先代忠敬に請われ伊奈家の聟養子となった。しかし忠敬の実子に忠善があり、忠尊はこの義弟忠善を養子に迎えた。しかし忠尊の妾八尾にも岩之丞が生れたため、伊奈家は複雑な様相を帯びてくる。〔四六〕によると、岩之丞を家督相続させるための忠尊の謀計に忠善が迷惑し、寛政三年暮、赤山出張先から、家臣小島外守一人をともない比叡山に出奔、このことが、小島外守の妻の訴えから露顕し、伊奈家断絶の理由になったという。つまり伊奈家改易事件の真相は、忠尊の実子と養子の家督相続をめぐるお家騒
動であったことが知れる。
〔三二〕~〔四二〕は、いずれも伊奈家騒動に関する史料であり、伊奈家とその家臣の動向を、月日を追って窺うことができる貴重な文書である。ただし前記のごとき伊奈家督の件は表面にはでてこない。
まず〔三九〕によると、伊奈忠尊の不行跡を憂慮した伊奈家家臣杉浦五太夫・野村藤介・会田七左衛門は、寛政二年六月三日、忠尊の実兄にあたる寺社奉行板倉周防守勝政に、乱れた伊奈家の内情を訴え善処方を依頼した。しかし伊奈家家老を差置いて板倉家に内訴したのは不届であると、三人は同月五日逼塞を命ぜられる。翌七月十二日逼塞を解かれたが、なお謹慎の身であったにかかわらず、前記三名は忠尊の改心を求め同年十一月十六日、同志の家臣五四名連印の諌言書〔三二〕を家老宛に提出した。この諫言書には、幕府からの預り金の返済延期を、関東郡代の役職に替えても幕府に強訴するという忠尊の傲慢を責めたり、天明八年(一七八八)以来赤山に蟄居を命ぜられている伊奈家の家老永田半太夫父子の逼塞御免を願っている。これに対し忠尊は同月二十六日家老を介して、願いの趣は委細承知した旨の返答〔三三〕をしている。さらに同年十二月、反忠尊派の同志の家臣は、逼塞を解かれた永田父子の再勤願〔三五〕〔三六〕を出すが、この間かれらは赤山の永田父子にしぱしぱ連絡をとっていたようである。すなわち〔三四〕は同志家臣から永田に宛てた書簡であるが、永田父子の再勤と忠尊改心の為の運動を続けるが、もし処罰された時は後をよろしく頼むという趣旨である。また半太夫はかれらに対し過激な行動を慎しむよう戒しめ、かつ事によせ注意や指示を与えていた模様である〔三九〕。しかし忠尊は頑として永田父子の再勤を認めず、同年暮から病気と称して登城もせず、本所屋敷に引籠ってしまう。同志の家臣は翌三年四月にも再び永田父子の再勤願〔三七〕を家老宛に提出した。かくするうち、幕府当局より伊奈家家臣不穏の動向を尋ねられ、翌五月十五日、忠尊が登城のうえ答書〔三八〕を呈出した。さらに同志家臣の反忠尊運動の激化に、忠尊は再び永田父子に対し謹慎を申し渡した。同志家臣と永田父子は、こうした忠尊の強圧に抗し、ある筋へ忠尊の不行跡などを報告してしきりにその善処方を働きかけていたとみられる〔三九〕〔四〇〕。ところがその後忠尊の実兄板倉周防守勝政の裁きにより、同志家臣五〇余名の多くは、伊奈家から追放処分をうける破目になった。このうち杉浦五太夫・五郎右衛門の父子をはじめ、会田七左衛門・野村藤介の重立った者は伊奈屋敷にそのまま監禁された。杉浦五太夫はこの監禁中の同年八月二十四日、伊奈家存亡の危機を憂慮しながら伊奈屋敷内で病歿した。その後の経過は、前述のごとく、忠善の比叡山出奔と忠尊の失脚とにつながっていく。なお翌四年六月、忠善が比叡山から実父忠敬の実家松平甲斐守屋敷に入るに及び、この事件の真相が判明し、杉浦五郎右衛門をはじめ伊奈屋敷に監禁されていた一同は釈放されることになった。
〔四三〕は寛政四年三月、伊奈忠尊の知行地没収、および末家伊奈小太郎忠盈に伊奈家名跡を継がせるべき旨、関係村々に触れた幕府の廻文である。
〔四四〕は、寛政四年七月、元伊奈家臣会田七左衛門家の田地御払入札触である。なおこの際、同じく大川戸村の杉浦家屋敷地も、居屋敷だけを残し御払地として入札処分となっている。これらの田地は、伊奈家改易にともなう負債整理の処置と考えられる。