村況

9~13/1009ページ

原本の該当ページを見る

 江戸時代の村概況を把握するにもっとも便利なものとして、村明細帳がある。

 本項にはこの村明細帳をはじめ、当地域の村況を包括的に伝える文書を収めた。村明細帳は村鑑などとも称され、村高・貢租・用水・寺社、さらに普請場・家数・人数・牛馬数・産物・農間余業などを書上げたもので、いわば現在の役場で作製する村勢要覧の如きものである。この明細書上げは、領主や代官の交替時とか、幕府巡見使や代官の廻村の際などに、その役人に差出されたものである。その場合により、簡単に書上げたものや、また詳細に書上げたものもあって一様ではない。これらの書上げは当時の支配者か、村々における租税の負担能力をはかる資料として、その他何らかの必要から作製を命じたものである。それだけに村方としてもその作製にあたっては、作意的に報告する場合もある。とくに土地の産物や農間余業などは、ひかえ目に報告されるのが一般的であった。

越谷地区村況表
地区 旧字 領主 村高 寺領 戸口 田積 畑積 馬数 改革組合
桜井 平方 御料 1423 林西寺25石 185 66.1 134.6 15 粕壁組合
大泊 424 安国寺4石 50 32.7 27.1 1  〃 〃
大里 351 50 25.5 17.5 越谷組合
上間久里 477 50 39.0 22.5 2 〃 〃
下間久里 527 50 46.1 19.5  〃 〃
新方 北川崎 御料 293 清浄院 約50 19.9 17.4 1 越谷組合
平方 382 約30 35.6 12.8 2 〃 〃
大泊 340 清浄院 約60 17.4 24.6 3 〃 〃
大里 岩槻領 218 清浄院12石 18 19.3 7.7 粕壁組合
上間久里 御料 282 清浄院 31 26.5 9.5 2 〃 〃
弥十郎 220 20 35.4 9.7 3 越谷組合
船渡 761 清浄院 108 53.3 36.0 3 粕壁組合
大袋 恩間 岩槻領 502 90 29.4 28.0 10 岩槻組合
恩間新田 21.0 3.2 3  〃 〃
大竹 284 56 20.4 27.2 3  〃 〃
大道 417 87 47.1 18.0 5  〃 〃
三野宮 492 64 51.4 21.5 13  〃 〃
袋山 御料 267 70 13.7 64.8 1 越谷組合
大林 200 31 16.1 16.1 3  〃 〃
大房 373 浄光寺5石 50 29.7 25.0  〃 〃
増林 増林 御料 1854 240 105.5 110.4 5 越谷組合
増森 659 130 20.9 87.2 2  〃 〃
中島 207 30 2.8 32.5 1  〃 〃
東小林 788 107 29.3 70.6 2  〃 〃
花田 277 48 6.2 37.9  〃 〃
荻島 砂原 六ッ浦領 687 64 49.8 26.0 5 越谷組合
小曾川 旗本領 455 62 38.8 18.0 1  〃 〃
野島 180 19 12.3 12.1 2 深作組合
南荻島 御料・旗本領 1355 浄山寺3石 131 92.0 76.9 3 越谷組合
北後谷 六ッ浦領 386 31 45.2 5.1 2  〃 〃
長島 御料 168 14 15.0 4.0 大門組合
西新井 御料・岩槻領 1110 74 88.2 17.0 13 越谷組合
出羽 四丁野 御料 701 迎摂院5石 66 53.2 17.4 2 越谷組合
谷中 岩槻領 374 48 35.1 4.7 7  〃 〃
越巻 御料 361 36 39.1 13.9  〃 〃
大間野 522 54 63.1 14.3 7  〃 〃
七左衛門 御料・旗本領 1109 114 193.6 31.2 5  〃 〃
神明下 〃   〃 941 59 73.2 19.4 〃 〃
蒲生 登戸 御料 289 46 36.5 4.0 1 八条組合
瓦曾根 598 照漣院5石 105 52.7 13.3 〃 〃
蒲生 1829 217 158.8 38.9 1 〃 〃
大相模 見田方 忍領 693 浄音寺10石 59 56.6 23.5 2 八条組合
千疋 453 55 32.3 32.5 2 〃 〃
別府 44 9 2.2 8.1 〃 〃
四条 369 32 32.3 14.4 〃 〃
南百 228 29 22.5 8.9 〃 〃
西方 御料・旗本領 1590 大聖寺60石 160 140.5 35.0 3 〃 〃
東方 忍領 1089 85 87.6 43.2 14 〃 〃
川柳 麦塚 忍領 507 71 50.1 15.3 4 八条組合
伊原 御料 590 75 57.6 15.7 6 〃 〃
大沢 大沢 御料 1075 481 52.7 99.0 越谷組合
越ヶ谷 越ヶ谷 御料 1618 天岳寺15石 549 113.8 81.3 越谷組合
備考 ①領主は宝暦6年(1756)現在
②村高は〔天保郷帳〕による
③戸口は文政5年(1822)現在
④田積・畑積・馬数は明治8年(1875)現在〔武蔵国郡村誌〕による
⑤改革組合は文政10年(1827)現在

 〔四八〕は、袋山村の村鑑書上帳である。これによって袋山村は享保六年(一七二一)現在、代官伊奈半左衛門支配の幕領であり、村高は二三七石余、田はなく畑ばかりでその耕地面積は六八町三反歩余、家数は七二軒、人数は三九二人、牛はいなくて馬か一三疋、冬の気候は江戸にくらべてやや寒く、夏は江戸の暑さとほぼ同じといった村柄であることがわかる。以下〔四九〕の西方村、〔五一〕の四町野村、〔五三〕の越ヶ谷町、〔五四〕の大沢町、〔五七〕の七左衛門村等の明細帳や町鑑類によって、それぞれの村勢町勢を知ることができよう。

 〔五二〕は、明細帳類とは若干異なり、越ヶ谷御殿跡地の由緒書上げである。越ヶ谷御殿は、徳川家康によって慶長九年(一六○四)に設置されたが、明暦三年(一六五七)江戸城焼失の際、二の丸の仮御殿として移転した。この御殿跡地は暫らく除地(無年貢地)のままにされていたが、寛文二年(一六六二)の検地の際、御殿跡のうちの四畝二六歩が御殿跡御林として除地となったほか、残りの地は上畑の年貢地に組入れられ、元御殿番勤めの由緒を持つ浜野・小杉両家が名請することになった。しかしその後この地所はいずれも質流れ地として他人の所持地になったとある。また御殿跡御林四畝二六歩の除地は、町内預かりとなり、御林の伐木はその都度入札の上幕府に金納していた。かつて御殿が設けられていた越ヶ谷町の、一つの特色を示すものである。

 〔五五〕は、幕府の地誌調べ役人が廻村の際、その質問要項にそって西方村が差出した書上げである。地誌の調査が、どのように行なわれたか、その内容を知り得る好史料である。

 〔五六〕は西方村の「旧記」仝五巻のうちの第一巻の冒頭の部分からの引用である。これによれば、西方村はその昔周辺村々を含めて大相摸の地と称したという。西方村には天平勝宝二年(七五〇)の創立と伝えられる不動坊が開かれ、相模国大山寺不動尊と同木である良弁作の不動が祀られた。これにより相模の国にちなみ大相摸の地名がつけられたという。当寺には、前出の元亀三年(一五七二)の北条氏繁の判物〔三〕や、天正十四年(一五八六)の太田氏房禁制〔五〕の写等が伝存しており、また天正十九年(一五九一)徳川家康から御朱印地六〇石を拝領した当地域の名刹である。地元の農民が、村の誇りとして書留めた一つである。

 なお江戸時代の越谷地域には、二町四八か村(川柳地区上谷は東方村に含む)があった。当時の越谷地域の全体概況を知るためには、これらすべての町村の明細帳、もしくはそれに準じた史料を収載したかったが、史料および紙数の制約から、わずか二町四か村のみにとどまった。そこでこの欠を補うため、五〇か町村それぞれの村高・家数・人口・寺院・支配関係といった概況を表示したので、参照されたい。