土地

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 土地経済の上に立つ近世封建社会においては、人と貢租は一体の関係にあったと同時に、土地と貢租も表裏の関係にあった。夫役といわれた労役が、人についての地代であるのに対し、生産物貢租は土地についての地代といえよう。関東入部後の徳川氏は、こうした人と土地を一体化するための政策として、すべての土地に近世的な検地を施行していった。つまり一筆ごとに田畑の区別やその面積、および上・中・下といった土地の位付けを定め、さらにその土地の直接耕作者にその土地の耕作権を与えて、年貢の直接負担者に位置付けていった。この検地の結果を一筆毎に記載したものか、水帳ともよばれた検地帳である。

 検地帳の古いものでは、天正から文禄(一五七三~一五九五)にかけて全国的に実施された大閤検地帳や、徳川政権初頭の慶長検地帳が各地で発見されている。しかし当地域にはこのいずれもが発見されていない。わずかに寛永四年(一六二七)の西方村検地水帳〔五八〕〔五九〕(全十一冊のうち三冊欠)と、寛永六年の大松清浄院領検地帳〔六〇〕が残存しているにすぎない。このうち西方村検地帳は元禄期の写しであり、元禄期当時の名請者や耕地名などが同時に書加えられていて原形を失なっている。検地帳には、一応現実の直接耕作者である農民が記載されているのが通例であるが、近世初期の検地帳には、いわゆる「分付」記載の形式が見られる。それは土豪層に隷属した農民の独立がまだ不完全で、その不完全な関係がそのまま誰々分という「分付」で示されたものもあるといわれる。清浄院領寛永検地帳の「同分民部」「同分清右衛門」などの分付記載は、どのような意味を持つかは、今後の研究に待たねばならぬが、初期検地帳の分付形態をわずかにここに見ることができる。また元禄十年(一六九七)の越ヶ谷町検地帳〔六六〕には、この時期においてもまだ「五郎平分」あるいは「五郎平抱」の記載が見られるのが注目される。この五郎平とは、越ヶ谷の中世来の土豪会田出羽家の元禄期の当主である。なお、五郎平名請の屋敷三町四反三畝拾歩とあるは、前出〔七〕の伊奈備前守差添状に見られる会田出羽に下賜された屋敷地一町歩の検地における実坪で、この時から年貢地に組入れられたものである。

 当地域では、元禄八年(一六九五)に幕領総検地が実施され、元禄十年に検地帳が交付されたが、この元禄検地帳が幕領村々の基本的な土地台帳となっている。その後は大規模な検地がなく、土地出入などで実施された宝暦十一年(一五一六)の蒲生村一村検地〔七五〕の特例を除き、見付地や流作場、あるいは開発地の新田検地〔七二〕〔七四〕〔七七〕が行なわれた程度であった。この新田検地は享保・寛延・天保年代に実施されたもので、この検地で査定された石高がそれぞれ村高に組入れられていった。しかしいずれも村高を左右するような大きな石高ではなかった。

 〔六五〕は、元禄八年の検地にあたり、長嶋村農民が一同申し合せの上とりきめた議定書である。この議定には、以前の検地から年数がたち、その間所持地の変動や田畑の替地などがあったため、各人の所持地が入りこんで争いがあったが、検地によって所持地がきめられた上は、異論がないようにとのことなどがきめられている。

 〔六七〕〔六八〕は、宝永二年(一七〇五)の元荒川改修によって生じた古川敷の下げ渡し願である。前者は、袋山村における正徳三年(一七一三)の願書である。この古川敷の耕作権ははじめ、袋山村の名主が幕府から一括して買取ったが、代金未納のため、袋山村惣百姓へ高割合によって割当てられることとなった。ところが幕府はこの古川の開発を改めて願人に請負わせようとした。これに対し他町村の者の古川敷所有は迷惑故、元通り袋山農民に下渡ししてほしいという文書である。後者は同じく袋山村の正徳四年の古川敷争論による訴え書である。これによると、同じく古川沿いの村々が、幕府にこの古川敷の下げ渡しの割当てを願っているが、その下げ渡し願の根拠が間違いであること、年々拾両宛の上納金を出す故古川敷をすべてて袋山村に下げ渡し願いたいという意味のものである。この古川敷は結果的には古川沿いの関係村々にも割当てられたか、この古川開発地がすべて村高に組みこまれて正式な年貢地になるのは、天保の新田検地をまたねばならなかった。