貢租課役

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 江戸幕府や諸藩の経済基盤は、そのほとんどが農民の年貢に依拠していたことは言うまでもない。士農工商の身分制を確立するにあたり、武士階級のすぐ次に百姓を位置づけたのもこのためであろう。

 農民は生産物を現物や代金で納める本年貢や、林野などの雑多な収益に対して賦課される小物成年貢のほか、労働提供としての夫役が課せられ二重の負担をうけていた。そのうえ江戸時代も後期になり商品生産や商品流通が活発になるにつれ、油絞りや酒造あるいは河岸場に対する冥加永や運上金が徴収されてくる。また領主財政の窮乏から御用金も頻繁に強制されてくる。とくに蟇末期には、江戸城焼失の再建寄金や長州征伐費用の寄金として強制割当的な御用金を賦課し、一定額の金納者には褒美としてそれぞれ苗字や帯刀を許すなどの方法がとられた。

 もともと名主に代表される近世の村役人にとって最も大切な仕事は、個々の農民から前述の年貢課役を取り立てこれを領主に完納することであった。当時はこれら年貢を村単位に一括して課徴し、農民側はまた村の責任において一括納入するしくみであった。

 〔七九〕~〔九〇〕は、この村単位に課せられた近世初期における年貢の割付状である。つまり現在の納税通知ともいうべきものである。袋山・登戸・伊原の各村はいずれも幕領であり、年貢の徴収者は伊奈備前守忠次、あるいはその子伊奈半十郎忠治の名になっている。同じ形態の割付状でも、名主百姓中といったその宛名が、年代の下るに従って下方に小さく記されていく点が注目される。なお袋山村は畑方のみの村であったため、その年貢は近世初頭から現物納はなく、永納(貨幣納)だけであった。

 〔九一〕は明暦二年(一六五六)の、日光道中千住・草加・越ヶ谷・粕壁・杉戸・幸手・栗橋六か宿の高役免除証文である。高役とは村々の石高に応じて課せられた夫役である。当時この夫役には春と夏に行なわれる御普請の人足役、おつきや人足等の課役のほか、高千石に付鷹の餌用の犬六匹(但し代金納)あるいは高千石に付うなぎ六本宛、鳥の餌用として、くも・おけら、その他蓮葉・くこ・竹・杭木などを高役として納めることになっていた。六か宿は道中伝馬負担の過重を理由に、この高役免除を幕府に訴願し、許可されたのである。この高役免除の証文は、のちに普請課役の出入争論などが起きた際、六か宿にとつての重要な証拠文書となった。

 〔九二〕は、寛文七年(一六六七)の七左衛門新田村の年貢割付状である。当時七左衛門新田は槐戸新田とも称され、のちの元禄八年(一六九五)の幕領総検地によって正式に分村を見た越巻・大間野の両村がまだ含められていた。開発当初は幕領であったが、寛文二年(一六六二)土屋但馬守の領分に組入れられた。この年貢割付状は土屋氏から出されたものである。なお土屋氏はその子相模守の代、天和元年(一六八一)駿州田中城に転封となり、七左衛門新田は再び幕領に復している。

 〔九六〕は、享保九年(一七二四)八条領村々が、定免制に切替えられた際の西方村の請書である。定免とは検見を行なってその年の作柄を検査し、この査定にしたがって年貢を課す方法ではなく、一定の年貢量を、定められたある期間作柄の検査なしに徴収する方法である。ただし年季が明けた時は、以前の年貢量に割増しをつけて課徴するのが普通であった。西方村では前十か年の年貢量を平均し、それに割増しをつけて三か年の定免高がきめられたが、年季切替の度に割増しがつけられ、きびしい年貢増徴が行なわれていった〔九八〕。これは享保改革による激しい年貢増徴策の一環でもあった。なお飢饉災害などでいちじるしく不作の時は、検見を願い検見の結果、その収獲量に応じた減免をうけることができた。これを破免検見というか、これにも一定の損毛以上の不作でなければ検見をうけられない制約があった。

 〔一〇〇〕は、絞油業・酒造業に賦課される冥加金等の記録である。これにより当地域の絞油・酒造冥加永の村請上納は、共に安永元年(一七七二)にはじまったことが知れる。なお、元荒川の瓦曾根河岸船問屋の運上金上納は、安永三年からである。

 〔一〇四〕は、米価引上げのための米の買占めに用いる資金を、幕府の要求に応じて上納した一件の記録である。これにより豊作で米価が下落した年は、文化三年(一八〇六)と文化六年にもあったことが知れる。貢租米の換金化によって財政を賄なう領主は、米価の下落で逆に困窮するという現象が生じる。このため米価の下落を阻止するため御用金を徴して米を買しめる方法がとられた。この農民から徴した御用金は、一定の期間を経てから利足を付して返済される建て前であったが、そのまま返済されないことも多かった。

 〔一一〇〕は、財政窮乏にあえぐ忍藩が、領民に対し御用金上納を命じた際の東方村の史料である。指定額通りの御用金を上納したか不明であるが、農民にとっては迷惑なものであったに違いない。なお忍藩では明和期(一七六四~)にもしばしば年貢米引当による条件で、先納金を強要しているか、返済期限延期などの約束違反に抵抗し、柿ノ木領(忍藩領飛地八か村の領名)農民の年貢米差押え事件などか起きたこともあった。

 〔一一七〕は、幕領西新井村の年貢徴収割合平均願である。年貢はその年の年貢割付状にしたがい、村内一括して納入するが、村内農民個々の割当てに際しては、その徴収率の基準などで問題が多かった。本文書は上田・下田に対する徴収割当の基準に不満をもった、小前農民層による年貢割当変更の訴願である。