戸口

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 江戸時代の戸口関係のもっとも基本的な史料として、宗門改帳がある。これは宗旨改帳・宗門人別帳などとも称され、支配役所に一村単位あるいは組単位で作成提出した戸口調査書である。これには江戸幕府の寺檀制度によって、各人の信仰とは関係なく、住居地域によって組入れられていた檀那寺の証明印が必要であった。したがってこれを寺請制度とも呼んでいる。つまり当時の寺院は、現在の戸籍関係取扱に類する所でもあり、各人は生れた時から死ぬまで、特定の寺院の檀那として登録され、旅行・婚姻・奉公・住居移動などに、それぞれの所属した寺院の証明をうけるしくみになっていた。また婚姻や住居の移動などにより、従来の檀那寺から離れた場合でも、その移動先の寺院に登録して、その寺院の檀家とならなければならなかった。

 こうした戸口調べの目的は、当初幕府禁制のキリスト教や、日蓮宗不受不施派などのいわゆる邪宗と見なされた宗門への、入信者を予防監視するためのものであった。この寺院と直結した幕府の宗門改制度が実施されたのは、島原の乱後の寛永十七年(一六四〇)九州地方が初めであるといわれるが、こうした制度が全国で一般化されたのは天和年間(一六八一~)であったといわれる。さらに正確にいえば、宗門改は人別改とは本来別個な制度であり、この人別改が全国一斉に実施されるようになったのは、享保十一年(一七二六)からである。しかし当地域では今の処両者を明確に区別できる史料はない。いずれにしろ領主にとっては邪宗の予防を含みながらも、江戸時代中期以降の宗門改はむしろ村々の人口掌握と、その動態の把握に主目的がおかれていた。そのため村役人の責任において、毎年のように書上げを実施するのが一般的であった。

 宗門改帳には各家の持高・家族の名前・年齢・牛馬の所持数、また百姓・地借・奉公人などといった身分上の記載がある。さらに年間における出生・死亡・奉公などの移動を示した人口の増減書上げが附記されている場合もある。したがって当時における村内の階層構成や、人口動態の傾向を知るにきわめて便利なものである。

 本項には忍藩領四条村の宗旨改帳〔一二二〕と、同じく四条村諸奉公人改帳〔一二三〕、及び幕領七左衛門村の人別改帳〔一三四〕を収めた。

 忍藩の宗旨改帳の記載様式は、幕領のそれと異なり、祖父および両親がいつ死去したか、妻は誰の娘でいつ結婚したかなどを詳細に記している。また忍藩では、享保十八年に奉公人改めを行なっているのか注目される。

 その他、本項には奉公人請状〔一二七〕、久離帳外願〔一二五〕、欠落者届〔一三六〕、人別送り状〔一四六〕をはじめ、これらに附随して問題の生じた事件の例を幾つか載せた。奉公人請状や人別送り状には、名主を介して檀那寺の認印をうける手続きが必要であった。また久離帳外とは、親子兄弟の縁を切ってこれを人別帳から除くということである。当時は罪を犯した場合、本人はもちろん、親兄弟、時には五人組の者までが罰せられるいわゆる縁坐法が適用されていた。したがって法に触れる恐れのある者は親子兄弟の縁を切ってこれを戸籍から除外する措置をとった。帳外者はいわゆる無宿者と呼ばれ、世間では一人前の扱かいをうけられなかった。また借財その他で村を逃げだす者も多かったが、この欠落者に対してもその詮義はきびしく、村の責任においてこれを搜さなければならない義務が課せられていた。欠落者の中には、事情により村に帰る者もあった〔一四一〕〔一四二〕が、その際は名主に詫を入れて帰村を願うのが順序であった。

 このほか戸口関係史料には、婚姻・養子・離縁・家督相続、さらには家出・身代奉公などに伴なう諸種のもつれ等々、当時の庶民生活における幾多の人生模様を窺い知るものが多い。