村政

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 江戸時代の村政は、農民の中から選ばれた名主・年寄・百姓代という村役人によって運営されていた。これを通称「村方三役」「地方三役」などと呼んでいる。ただし百姓代は名主・年寄の政務を監査する役であり、時代がかなり下った頃設定されたものである。名主(または庄屋)は村を代表した村民の首長であり、年寄(または組頭)は名主の補佐役である。いずれもこの任免は、それぞれの支配所にしたがい、代官あるいは領主〔一四八〕〔一五二〕地頭〔一八三〕によって命ぜられ、かつその支配をうけるものであった。その職務はいたって広汎にわたり、戸籍事務・年貢課役の徴収事務・訴訟事務・警察事務・政令伝達事務など、村の管理運営諸般に及んでいる。したがって名主の権限は強力であり、それだけに、名主役は村内でも財力のある有力者がこれに任じられ、その多くは世襲制であった。

 だがこの世襲制も時代が下るとともに、一般農民の突上げでその名主の権力基盤がくずされていき、おのずから世襲名主が消滅していく村々が多くなった。なかには登戸村名主〔一五七〕のように、名主相続人が幼少なので、一定年齢に達するまでは、村内年寄衆が年番で名主代役を務める方法をとって世襲を守った村もあったが、概して世襲制は少なくなっていく。それは村内民主化運動ともみられる村方騒動の激発にともない実現していく名主交替の事例にあらわれる。

 〔一四九〕は宝永三年(一七〇六)の元荒川掘替によって生じた古川の開発敷地をめぐり、その耕作権の所属に端を発した袋山村の名主対小前百姓の争論である。ここで小前百姓は、従来からの名主の数々の横暴行為を弾劾している。この結果は不明であるが、従来二名置かれていた名主がその後一名になっていることがら、小前層の要求はある程度貫徹されたものとみられる。

 〔一五三〕は七左衛門村の同じく名主の権威に抵抗する名主対小前層の村方騒動一件である。元文五年(一七四〇)、一二か条に集約した名主攻撃をおりこんだ惣百姓の訴訟ではげしい争論が続くが、寛保二年(一七四二)に奉行所裁決があった。これによって小前層にも処罰者が出たが、名主は退役となり村政から旧勢力を排除することに成功したとみられる。その後も根強く残っている旧勢力の排除につとめ、前名主の血筋を引く新名主の排斥運動〔一五五〕が続けられていく。

 〔一五〇〕〔一五一〕〔一五九〕は六ツ浦藩領砂原村における享保九年(一七二四)から安永六年(一七七六)に至る一連の村内改革運動である。はじめ村の旧習に抵抗した元組頭対名主惣百姓の対立として現われるが、これは旧来の村秩序を固執する村民の総反撃にあって元組頭の敗北に終わり村政からしめだされた。しかし元文期(一七五六~)に入ると様相が変り、ほぽ享保期と同様な改革を主張しながら、今度は名主対惣百姓の対立となって現われる。この対立は安永期に入るとさらに激化し、出入訴訟の結果、小前層の改革運動は多少成功をおさめる。

 〔一六〇〕は忍藩領四条村の名主対組頭の争論における名主の訴書である。ここで注目されるのは、河川敷における草刈場の所有を、名主の所有から組頭が奪い取ろうとした点である。草刈場は農民の入会地として重要な場所であっただけに、草刈場の移管は経済的支配の基盤の一つが失なわれ、名主の地位がそれだけ弱まることにつながるからである。この争論の結果は不明であるが、四条村名主はその後も代々名主を世襲している。しかし少なくとも絶対的な権威を誇った名主の性格も、時代とともに変っていったことは事実であろう。このほかどの村々でも多かれ少なかれ村政に対する小前層の抵抗と改革の運動は続けられていた。

 〔一五六〕〔一六二〕〔一六三〕は村内のとくに村政に関する議定である。ただしこれらは、名主交替時における村役人の役料などのとりきめであるが、〔一八四〕〔一八五〕のように村政や農事の慣行を規定した場合もあった。また村議定の中にも〔一六五〕〔一六六〕などは文政改革における領主法に基づいた組合村議定である。これは改革組合あるいは寄場組合と称された私領・御料の差別ない一円領域数十か村単位の組合組織で、いわゆる八州廻りと称された取締役人と直結した大小惣代役人を中心に運営された組合である。これは村々の治安取締りを主眼にしたものだが、農民の生活をまたいちじるしく規制するものでもあった。つまり冠婚葬祭における慣行の自粛はもとより、旅行・寄合・休日などにいたるまで日常生活をきびしく束縛するものであった。したがってこれらの取締議定は、当時の農民の生活状態を具体的に知る上で参考となるものであろう。〔一七五〕は、大小惣代を含め寄場役人の構成が知れる文書であり、さらに〔一八〇〕〔一八一〕は八州廻りの手先である道案内人の設置経過やその役料などが知れる興味あるものである。

 〔一七四〕は不法家作による詫状である。江戸時代は農家の建築様式にも家の格式によりそれぞれその建て方に規制があった。家の建て替えにおいても、この規制にふれた農民は新築の家をとりこわし名主宛の詫書を入れることも珍らしくなかった。

 〔一七九〕は兵賦組合議定である。この兵賦とは幕府軍の歩兵であり一般農民から選出された徴用兵であった。当地域は高千石に付一人宛という割当てであるが、その給料は組合村々が高割で負担することになっている。徴兵された者は幕府の調練所に入れられ鉄砲の取扱などの訓練をうけたが、明治元年(一八六八)幕府の崩壊とともに解散となった。これら兵賦が解散にあたって帰郷の途中、越ヶ谷宿で強奪事件などをおこしている記録が、『越谷市史』第四巻所収の内藤家「記録帳」にもみえている。